疫病は精神論を侵すか
ここ最近のネットを見ていて、ついに政権批判の声が政権擁護の声より大きくなり始めたというのを実感する。少なくとも私にとっては、こんなことは今まであり得なかったというか、不可能ではないかというふうに感じられていた。あくまで見た感じの印象ではあるが、これまで政権批判的な意見はどんなものであっても「自己責任論・個人帰結」型のリアリズム、すなわち「この人間(ないしこの者が擁護している人間)は個人的な努力、工夫を怠った責任を社会やシステムに求めているだけなのだ」という万能の理論で一刀両断されるというのが常で、この万能さをもって必ず右派と左派の論争は形式じみた応援合戦的な対立としてなあなあで終結するのが常だったように思う。そのパワーバランスが変わっているのは何故だろうか?
私の理解では、日本社会の全体的な雰囲気は「精神論型メリトクラシー」である。メリトクラシー<実力社会、成果主義>は本来(機会としての)不平等をなくすための概念であり、「努力したり結果を出した人間はそれ相応の報いを受けて然るべきだ」という発想に根ざしている。しかし、このシステムが各国で導入され、実情が判明するにつれ、メリトクラシーはむしろ批判的な文脈で参照される言葉に変容していった。なぜなら、実力・成果主義的なシステムが内包する「努力した者、成果を上げた者は報われる」という前提はやがて逆流し、「不遇な者・報われなかった者は努力しなかったはずなのである」というふうに不平等をむしろ正当化する方向に働いたからだ。この風潮が結果的に「弱者や淘汰された者は自らの怠慢の報いを受けただけである」という自己責任論的な切り離しを加速し、露呈されるべき不満や欠陥を抑圧し、福祉や互助の考え方が衰退していく、というのがメリトクラシー的なシステムが不可避的に抱える問題だといえる。
日本の場合、メリトクラシーの代名詞といえるサッチャーをお手本にしたため、すんなりと実力社会的な風潮が導入されたが、問題はこの考え方と日本独自の「精神論・努力好き」の悪癖の相性が良すぎたことではないだろうか。追い込まれると現実が見えなくなり、竹槍で戦闘機を落とそうと企てるほど「頑張り」を神聖視するのは良くも悪くもわが国の風土といえるかもしれないが、「助からなかった者は努力しなかったのである」というメリトクラシーの言い分と「頑張り」の効力を過大評価する精神性が融合すると「どのような状況に陥っても頑張りさえすれば何とかなる」という末期病的な危うい雰囲気が漂い始める。
しかし、「頑張りさえすれば何とかなる」という嘘が実際には多くの人間や組織に歓迎されている理由としては、「頑張りさえすれば何とかなる」という信仰は「私を管理するシステムなり私の従来のやり方が間違っていたとしても”頑張りさえすれば”私は大丈夫なのである」というふうに思考停止を肯定してくれるからに他ならない。たとえばある会社が構造的な欠陥を抱えていて持続的に衰退している場合、現実的には「システムに手を入れなければ助からない」という状況に陥るかもしれないが、「みんなで頑張ればなんとかなるはずなのである」という精神論を掲げれば、とりあえずみんなで頑張ることで「安心」することができる。これは「システムに手を入れる」ことが日常の崩壊という恐怖を喚起し、強力な正常性バイアスが働き、むしろ「現状を肯定する方」へ心理が傾くためと思われる。こういった「もはや破滅に向かっていると知っていながらなお/失敗した以前の手段に拘泥せざるを得なくなる」状態を、他にもコンコルド効果、サンクコスト、大企業病などといった言葉で説明できるが、いずれにせよそこには非常時に「正しいであろう認識」よりも「正しかったら都合のよい認識」に縋ろうとする人間の精神的な脆弱性が介在している。
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平気で生きるということ(β)
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