第7回「障がい」を考える全国交流会参加報告

この投稿の説明

私が属する日本基督教団(日本キリスト教団)の標記研修会に、教区代表として参加しました。その際の報告を教区内の機関紙「教区月報」にていたしました。その原稿が以下です。教区内諸教会への報告ということではありますが、ここでも公表しておきたいと思います。講演中は「障がい」という表記と「障害」という表記が法令について扱っているかどうかによって使い分けられていましたが、この度の報告では「障害」という表記にしています。
また、「月報」では記載していたURLはnoteでは下記のようなリンクとした方が見やすいと判断しましたので、重複を避けるため省略しています。

講演のプレゼンテーション資料についてはPDF版が日本基督教団「障がい」を考える小委員会のホームページ(以下)でダウンロードできます。


「第7回 「障がい」を考える全国交流会」参加報告

 2021年10月4日(月)、標記会がZoomを用いた形で開催された。もっとも、通常重ねてきた本会は交流ということも大きな柱であったとのことであるが、この度は開催形態の関係上、研修に絞った内容であった。主題講演は「大人の発達障害の理解と対応」、講師は津田望さん(社福のゆり会理事長/日本ナザレン教団五井教会信徒)で、講演中の手元端末での接続回線数は50余りであった(教会を会場として複数人が集まっての視聴をしている様子が見受けられたので正確な参加者は不明)。
 講演された内容は発達障害(自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如・多動症(ADHD)、限局性学習困難(LD))に関する基本的な知識・理解から始まり、教会での対応に関する基本姿勢の勧めまでといったところであった。講演資料は現在、「障がい」を考える小委員会のホームページからダウンロードできる。
 近頃は発達障害のそれぞれの特性について認知が広がりつつあるように感じる場面も体感で少しずつ増えているが、質疑応答の時間に参加者から「教会の中ではADHDは親のしつけの問題であると考えている人が一定数あり、認知を変えていくにはどうすればいいか」という質問や「(特別なスキルが無いという自己理解によってなど)容易にカミングアウトできない状況にある当事者があると思う」といった論旨の意見があったのが象徴的で、これらの特性への理解やそのケアが十分なところまでは達していないのは、社会全体でも、キリスト教世界でも同様と思われる。教会の中でこれらの特性について理解を深めるための取り組みは、キリスト教の伝達方法を検討したり、教会のこれまでの姿勢の振り返りをするという伝道活動そのものではないだろうか。
 特に、講演の中で「教会内での「困り感」と対応法」として触れられた事柄の多くは、いわゆる「健常者」にとっても十分ありえる「困り感」であり、対応法もまた、共通のものをそれなりに持つと思われる。それぞれの教会で簡単に実践可能な内容と思われるので、書き留めておきたい。

【教会内での「困り感」と対応法】

凡例
(数字)困り感
⇨対応法

→健常者にもこのような形では当てはまるのでは?このくらいの対応なら簡単にできるのでは?と報告者が考えたこと

(1) 集団行動が多い(集会参加・礼拝での行動(賛美歌や共同の祈りなど))
⇨落ち着くための個室があると良い、静かに注意する

→普段元気な性格で集団行動が好きと自認している人でも、落ち込む出来事の次の日には元気よく集団行動したくないということもある。そもそも集団での行動(賛美歌・祈りなど)に強制感があるのが良くないのではないか。賛美歌の時に歌わないで黙って座っていることや、別室参加が可能であると広報しておけば良いのではないか。むしろ、心身ともに快調でも、時々はそういう行動をしてみても良いと思う(例示した行動にカミングアウト強制のような意味合いを持たせないという効果もあるか?)。

(2) 信徒同士親密である(距離感の難しさ・触覚過敏・聴覚過敏)
⇨過度なボディタッチやアイコンタクトは避ける

→発達障害の診断を受けていなくてもいきなりは嫌という人はいる。「平和の挨拶」なども方法を選択(握手・会釈)できるようにしてはどうか。また、親しくても聞いてしまってはハラスメント的な意味合いを持ってしまう事柄もあるので、そういったところについてはこれらについて考える際に併せて再考しておくと良さそうだ。

(3) 会衆の前で話すことがある(証・祈り・聖書朗読などの急遽の指名)
⇨予定表で確認をする

→急遽このような事柄に対応するのが得意な人のほうが少ないと思う。事前に頼めるのなら誰にでもそうしたら良いし、事前にせよ急遽にせよ、断わるのは悪いことではないということを明確にしておくと多少ましなのではないだろうか。たまには役員や長老が、「今日は少し気分が乗らないので、来週指名してください」くらいに軽く爽やかに断ってみても良いかもしれない。

※個人的な話。少年時代のこと。ある教区集会で祈りの指名を受けて恥ずかしくて断ってしまった。二番目に指名された同世代の子は即座に引き受け、立派な祈りをした。帰宅後父親から「ひかるは祈れない」とかなり嫌味を言われた。あれ以来、「祈りを断るのは悪いことである」という印象が何となく自分の中にもついて回っていた。断った自分はダメな信徒というような自意識を持ってしまった。このような風潮が教会内に残っているとすれば、早急に改善したほうが良いと思う。

(4) 暗記することが多い(主の祈り・聖句など)
⇨パワーポイントやメモ、張り紙を利用。プログラム(週報)で全体を把握できるように。

→例えば初めての人は暗記できていないのは当然なので疎外感があると容易に想像できる。これらの対策は他の人々へも必要なものとなるだろう。また、暗記していなくても問題ないと礼拝で前の方に立つ人が率先してアピールするのはどうか。まずは教師が、主の祈りや信条は(暗記していたとしても)『讃美歌21』や週報などを開いて読むことにしてみては?

(5) 聖書の理解などを間違えることも(理解力の低下や社会経験の少なさなども関係)
⇨「違う」と言わずに丁寧に(嘲笑はダメ)

→本当に信頼できる関係性の人間からによるものなどの特別な事例でない限り、嘲笑されて嬉しい人は多分いない。これについてはみんなに同じようにできるほうが間違いなく良いと思う。気をつけておきたいのは、差別的内容を吹聴してしまった時であろうが、それにしても公衆の面前での否定は、余計に頑なになる可能性がありえるので、至急発言者を別室に移すなどした上で、それぞれの部屋への対応を行っていくのが望ましいのではないだろうか。

おそらく多くの人が、上記のような対応により不快感を覚えることは少なくなるのではないか。社会的弱者に優しい世界は、全ての人にとっても優しいのだと思う。他にも、簡単に検索した限りであるが、このような特性を持つ人たちには、例えば帽子・サングラス・ヘッドホンなどで落ち着くという事例もあるようで、礼拝でこれらの装飾品を外すように指導しない・むしろ当事者以外の周囲も積極的に身に着けるようにして良いのではないだろうか。
こうすれば、あなたにもし何か悲しい出来事があって、いろいろ乗り気になれないような時(何らかの身体症状が出てしまっている時も含む)にも、礼拝に出て安心できる可能性が高くなる気がしませんか?

小さな変化で多くの人が安心できる可能性が大きく膨らむ…、これが神の世界なのかもしれません。
「天の国はからし種のようだ(マタ13:31、本田哲郎訳)」。

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