恋する瞳
神崎綾乃は今年、恋人のいない状態でクリスマスを迎えた。それは彼女にとって実に十年ぶりのことであった。
今までも、とくに意図して冬に恋人を作ってきたわけではない。ひとつの恋が終わると、いつの間にか次の恋が始まっている。綾乃の人生はその繰り返しだった。
それがなぜか、春先に恋人と別れたあとはいつまで経っても次の恋がやってこなかった。
恋人がいない春も夏も悪くはなかった。女友達と遊ぶ機会が増えたし、一人であちこち出かけるのも新鮮で楽しい。基本的には楽観的な性格の持ち主である彼女は、毎日をきままに過ごしていれば次の恋だってすぐに見つかるだろうと考えていた。
誰かを好きになることは、神崎綾乃にとって難しいことではない。今まで生きてきた二十五年のどの場面を切り取っても、彼女は誰かに恋をしていた。
◇
冬がやってきた。街中がイルミネーションで輝きだす頃になっても、綾乃にはまだ次の恋が見つかっていなかった。
(出会いがないのが悪いんだ)
綾乃は思った。社会に出て働き始めてから、新たな出会いは格段に減っている。仕事で知り合った人と恋愛関係になるのは避けたい。しかし休日に遊ぶ相手は仲の良い友人ばかりで変化がない。
友人の紹介や合コンでの出会いはある。が、しかし、なぜか最近はあまり乗り気になれない。
(恋はしたいし彼氏も欲しいけど、誰でもいいわけじゃない。それに結婚したいわけじゃないから、婚活パーティーみたいなガチなところに行くのは違う気がする。焦らずに、自然に恋が始まるのを待とう)
そう自分に言い聞かせて数ヶ月、確実に過ぎていく季節に綾乃は次第に焦りはじめていた。
(何もしないで待ってるだけじゃ、出会いなんてあるわけない。このまま一生彼氏ができなかったらどうしよう。最近、同級生に結婚する子が増えてきたし、友達もみんな彼氏がいる。私、このままじゃやばいかもしれない)
本当は、友人全員に恋人がいるわけではなかった。しかし彼女の目には、恋人のいる友人ばかりが眩しく映った。SNSで目にする結婚報告に(彼女自身に結婚願望が無いにも関わらず)焦燥感を覚えるようになった頃には、彼女は完全に焦りで自我を失っていた。
◇
恋人と別れてから半年が過ぎた十月、綾乃は意図的に出会いを探すことを決意した。待つのはやめにして、こちらから恋を探しに行く。ご存知マッチングアプリの出番である。
顔の一部を隠した写真を使ったのにも関わらず、綾乃のアカウントには冗談のような数の「いいね」が押し寄せた。
数に圧倒されたのは初めだけで、すぐに慣れた綾乃は事務的に「いいね」を捌き始めた。まずは顔写真で「あり」「なし」を判定し、「あり」のプロフィールを読み、話が合いそうな人にはメッセージを送る。複数人とのメッセージのやり取りを継続し、次々に押し寄せる「いいね」を捌き続ける。
(これだけの数がいれば、誰か一人は好きになれるはず)
綾乃にとって、恋とは「自分がする」ものであった。出会いがアプリだとしても、お互いに妥協して恋人になるような関係性は彼女には必要なかった。綾乃は、とにかく恋がしたかった。
◇
アプリ内でメッセージのやり取りが続いている数人と、実際に会ってみることにした。「初デート」の予定で埋めつくされたスケジュール帳を眺めて、綾乃は久しぶりに心が浮き立つのを感じた。
しかし、現実はそう上手くはいかなかった。デートをした男の子たちは良くも悪くも普通で、そこそこな顔、そこそこな優しさ、一様に「ワンチャンいけるかも」と思っていて、だいたい話がつまらない。また会いたい、と思える人はいなかった。
綾乃は次第に疲弊し始めた。自分の考えが甘かったのか、高望みしすぎなのか。自問しながら、自分で思うよりも期待していたことに気づかされ、彼女は二重に落ち込んだ。
アプリに振り回されている間にも月日は流れ、十二月が始まった。綾乃は新たにアプリの男の子と会う約束をするのをやめた。既に約束をしている人とのデートが終わったら、アプリもやめるつもりでいる。残りのデートは完全に消化試合である。
そして、今日のデートが最後の一人だ。
相手は二つ年下で、アプリでは「タクミ」という名前を使っている。本当はクリスマスに誘われていたのだけれど、綾乃は初対面の相手とクリスマスにデートをする気になれず断った。しかし、どうしても年内に会いたいという謎の熱意に負けて、年末ギリギリの変な時期に会うことになったのだ。
今夜がアプリ納めだな、と思いながら待ち合わせ場所に向かう。一年の締めくくりと同時にアプリもやめてしまえば、清々しい気持ちで新年を迎えられるような気がする。
綾乃の意識はデートを成功させることではなく、無難に終わらせることに向いていた。
タクミ君は、綾乃が今まで会った男の子たちの中で一番綺麗な顔をしていた。背が高いけれど、線が細いので威圧感はない。ついでに存在感も薄い。
緊張した様子で、綾乃と目が合うたびに赤面して目が泳ぐのが微笑ましい。好きな映画やドラマの話題を楽しそうに語り、綾乃が話し出せば一生懸命に頷く姿には好感が持てた。
(今までの、遊び慣れてる男の子たちとは違うな)
タクミ君と話しているのは楽しかった。けれど楽しいだけで、恋が始まりそうな感覚はやってこない。
(可愛い子だな。弟みたい)
綾乃に弟はいないが、仲の良い兄弟がいたらこんなかんじかな、と想像が膨らんだ。
いつの間にか最後の客になっていた綾乃たちは、店員に閉店を告げられて慌てて店を出た。背後にシャッターの閉まる音を聞きながら、綾乃はタクミ君の後頭部を見つめて白い息を吐く。
今夜は格段に冷えている。急激に体温を奪われた綾乃は身震いし、同時に尿意を覚えた。
(そういえばお店に入ってからトイレに行ってない。でも今このタイミングでトイレに行きたいとは言えない。早く解散しよう)
なぜか立ち止まったままのタクミ君に声をかけようとして近づいた瞬間、彼は振り返って綾乃を見つめた。
「帰りたくない、です」
尿意に気を取られていた綾乃は、目の前の男の子をポカンと見上げた。潤んだ目をしたタクミ君の唇から、言葉がこぼれ落ちてくる。
「帰ったら今日が終わっちゃう。今日が終わったら、綾乃さん、もう会ってくれない気がする。帰りたくない。帰らないで」
タクミ君の目は限界までウルウルしている。ウルウルを通り過ぎて泣き出す寸前にも見える。
思いがけない事態に、綾乃の尿意は吹き飛んだ。
「待って、タクミ君、泣かないで。大丈夫だよ、また会えるよ」
綾乃は慌てて言った。言いながら、彼女は混乱していた。タクミ君の様子が不可解だった。
(これは泣き落とし? 彼も「ワンチャンあるかも勢」なのか?)
疑念が浮かぶ一方で、「もう会ってくれない気がする」という言葉に図星を刺されて動揺していた。
(今夜で終わりにしようと思っていたことが、態度に出ていたのだろうか。まさか。さっきまであんなに楽しく話していたのに)
考えているうちに尿意が復活し、綾乃の頭の中に警鐘が鳴り響く。今すぐトイレに行く必要があった。
この状況をなんとかしたい一心で俯いているタクミ君の顔を覗き込んだ綾乃は、今にも涙がこぼれそうな瞳で見つめ返されてハッとした。
(恋をしている目だ)
彼の瞳にぎゅっと胸を掴まれて息が詰まる。ついでに尿意も限界に近い。タクミ君が俯いたまま綾乃のコートの袖を握る。
「困らせてごめんなさい。嫌いにならないで」
しゅんとした表情で綾乃の様子をうかがう年下男子の視線と尿意の攻撃に、綾乃の頭はまともに思考することを放棄した。
(なにこれ! 可愛い! あざといなの!? 女子なの!? あーもうめちゃくちゃトイレ行きたい! タクミ君、君はなんなの!? わざとなの!? ほんと無理、限界!!)
心の中で絶叫した綾乃は、袖を握っているタクミ君の指に自分の指を絡めた。
「今日はとりあえず手繋いで帰ろう。それで、また今度デートしよ。ね?」
尿意をこらえるあまり、今度は綾乃が涙目になっていた。握られた手を見つめて赤面しているタクミ君の表情から、涙の気配が消えていく。ふにゃっと笑った彼は、本当に嬉しそうに大きく頷いた。
早足にならないように、でもできる限り急いで駅までの道を歩く。尿意は限界を超えると悪寒になるということを、綾乃は初めて知った。
私鉄で帰るというタクミ君とJRの改札前で別れ(絶対にまた連絡すると何度も約束した)、彼の姿が見えなくなった瞬間に早足でトイレに向かう。尿意が限界を超えると走れなくなるということも、綾乃はこの日初めて知った。
無事にトイレにたどり着いた綾乃は、便座に座ったまま放心した。限界まで我慢したあとの解放感は、もはや快感だった。
いまだ痺れたようになっている綾乃の頭の中に、タクミ君の潤んだ瞳が浮かんでは消える。
(いいなあ。私も恋したい。タクミ君に恋、できるかなあ)
尿意に負けて「また会おう」と何度も繰り返してしまったことを、綾乃は少し後悔している。しかし彼女は、もう一度あの瞳が見たい、とも思っている。
(恋されるのも、悪くないのかもしれない)
便座に座ったまま、神崎綾乃は微笑んだ。
〈了〉
↓↓こちらの企画に参加させていただきます↓↓
【文章・創作のサークル企画】#年越しの支度|織田 麻(Orita Asa) @oritaasa #note https://note.com/oriasa82/n/n9ca680991e6e
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
本年も大変お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。
よいお年をお迎えください。
※企画の趣旨と合っていなかったらごめんなさい。(正直「年末」しか合ってない気がしてます……)『自由に解釈してOK』という文を思い切り都合よく解釈して、欲望のままに書いてしまいました……<(_ _)>