枯れ井戸の底
「枯れ井戸の底」
大江戸線の車内で見つけた対象が、新宿で降りた。すばやく全身に目を走らせて、服装を脳裏に焼き付ける。これといって特徴のない短髪、濃いブルーのシャツにアウトドアブランドの黒いリュック、黒のスキニーパンツと白いスニーカー。顔は見えない。しかし彼が眼鏡をかけていることを、私は知っている。
案内板を見ているふりをしながら、目の端で対象の動きを追う。ゆったりした歩調で歩く彼がエスカレーターに乗ったのを確認して、私は尾行を開始した。
通勤ラッシュの時間帯を過ぎた、平日の午前中。都心とはいえ利用客は少ない。距離はあるが、私と対象の間には他に誰もいなかった。エスカレーターで運ばれている間、私は無力だ。
大江戸線のエスカレーターは長い。ポケットから有線のイヤホンを取り出し、両耳に突っ込む。心拍数が上がり、手すりを握った左手は汗ばんでくる。無音のイヤホンに押し戻された心音が耳の中で響く。
エスカレーターの頂上にたどり着いた対象が、視界から消えた。見失わないように歩いてエスカレーターを昇る。対象が見えたら立ち止まり、距離を保ったまま追いかける。地上に出るまで何度もそれを繰り返す。
改札を抜けてからもひたすら地上に向かっていた対象が、ようやく上昇を終えた。そのまま新南口の方向へ歩き出した彼の顔を目視する。やはり眼鏡をかけているその顔は、間違いなく同僚の杉本さんだった。
はっきりと確認した瞬間、このまま帰ろうかという思いが過る。尾行なんてやめて、家に帰って寝た方が良い。私にとっても、杉本さんにとっても。それなのに、身体が勝手に杉本さんについて行ってしまう。見失ってしまえばそれで終わるのに、人波に呑まれそうな対象の、杉本さんの、歩くたびに揺れる後頭部から目が離せない。
初めて他人を尾行したのは、小学生の時だった。対象は下校中に見つけた知らないおばさんだ。彼女はちょうどスーパーから出てきたところで、両手に買い物袋を持っていた。
理由は分からないけれど、気づいた時には彼女の跡を尾けていた。当時の私が尾行という言葉を知っていたかどうかは記憶にない。なんとなくついて行った、という感覚だったと思う。
電柱と電柱の間ほどの距離を保って、私はおばさんを追いかけた。重たそうな袋を持ち直す度に彼女の歩くスピードは落ちる。交差点を渡る時や四つ角を曲がる時、私の姿は確実におばさんの視界に入ったはずだ。しかし、彼女に私の存在を気に留めるそぶりはなかった。
私の家とは離れた場所にある住宅街の一軒家が、彼女の終着点だった。ブロック塀に囲まれたその古い家は、おばさんを飲み込んだ後も静かなままそこに在り続けた。知らない人に勝手についてきた自分が急に怖くなり、私は走って家に帰った。
大人になっても、私は他人の跡を尾ける癖をやめられないでいる。普段は尾行のことなんて忘れているのに、発作的に湧き上がる衝動に負けて全然知らない人の跡を尾けてしまうのだ。これを趣味というにはあまりにも悪趣味だけれど、他に言いようがないのでそう呼んでいる。
衝動は、一人で街中を歩いているときに感じることが多い。尾行の対象も一人で歩いている人がほとんどだ。突然、視界の中でその人だけが鮮明に見えて、気がついたら追いかけている。やめようと何度思っても、衝動のままに身体が動いてしまう。どうしてか、やめられない。
尾行は、対象が目的地にたどり着くまでに限られる。小学生の頃の尾行とは違って、対象の家までついて行くようなことはない。対象の目的地は駅や待ち合わせ場所であることがほとんどで、尾行も短い時間で終わる。
知らない人を尾行してしまう理由については、自分でもはっきりとは分からない。しかし尾行を繰り返すうちに、私が何に惹かれているのかはうっすら見えるようになった。
私は、何者でもない誰かが何者かになる瞬間を見たいのだ。何にも属さず一人でふわふわ歩いているヒトが、「その人」になる瞬間を見たい。顔も名前もないのっぺらぼうのような存在が、突如、実在の個人に変貌する瞬間を目撃し、観察したいのだ、と、思う。
それは待ち合わせの相手と会えた瞬間だったり、目当ての店にたどり着いた瞬間だったり、目的の駅で電車を降りる瞬間だったりする。
「無」だったヒトが顔を持つ瞬間は、特別な色彩に見えていた対象がどこにでもいる普通の人に変わる瞬間であり、私の興味が失われる瞬間でもある。それを目撃して尾行を終えるたび、私はほっとする。同時に少しがっかりもする。もしかしたら私は、どこまでも「無」であり続ける人を探しているのかもしれない。いずれにしても、何故そんなものを見たいのかは分からないままだ。
杉本さんを追いかけて、東南口の階段を下りる。駅周辺は流石に人が多い。次々湧いて出るような大量の人間を避けて歩きながら、知り合いを尾行するのは初めてだなあと思う。尾行対象者の色彩をした杉本さんを、私は見失うことができない。
杉本さんは、職場の同僚だ。私の勤める福祉法人に彼が中途採用で入職してきたのは、半年前のことだった。彼の第一印象は「結婚指輪が似合わない人」。夜勤中に隣でパソコンを操作する彼の太くて短い指にある指輪を見て、ただそう思った。
杉本さんは、手足は細いのにお腹だけがぷっくり膨らんでいる典型的な中年太りで、地味としか言いようのない顔に没個性的な眼鏡をかけている。個人的に話をするような機会もなく、私が彼に興味を持つことはなかった。
杉本さんが入職して数ヶ月が過ぎたある日の夜勤中、突然彼が語り出したことがあった。そのとき、彼の声が不思議な響きを持って私の身体の中を揺らした。枯れ井戸の中に反響しているような声だと思った。彼の声を浴びている間、私は枯れ井戸だった。
「僕は、妻の望むことはなんでも叶えたいと思っています」
彼は配偶者を「妻」と呼んだ。
「今住んでいるマンションは、妻が選びました。妻の希望を叶えられたのだから、僕の通勤時間などは些末な問題です」
彼が隣県から二時間以上かけて通勤していると聞いて、誰かが「大変だね」と言った、その返事だったように記憶している。その誰かが「そうなんだ」と返して、会話はそこで終わった。しかし彼は、たまたま隣にいた私に向けて彼の配偶者の魅力について滔々と語り出したのだ。
夜勤の疲れで感情のネジが緩んでしまっているようにも見えたけれど、彼は終始真顔だった。私は枯れ井戸の底で、杉本さんが語る奥さんへの愛情を浴びていた。
低く柔らかく響く杉本さんの声に揺すぶられながら、彼は奥さんをとても愛しているのだな、と考える。結婚してからもこんなふうに思われ続ける女性はどんな人なんだろう、とも。
その日から、私の中の杉本さんのイメージは「結婚指輪の似合わない、愛妻家で不思議な声の人」に変わった。彼の声によって繰り返し枯れ井戸になる私は、そのたびに微かに世界の色彩が褪せるような感覚を覚える。そのことが私の生活に、ほんの少しの不穏をもたらしていた。
そして今日、夜勤を終えた私はいつも通り大江戸線に乗って帰宅していた。その車内で、今日は公休日であるはずの杉本さんを見かけた。彼の左手に指輪がないことに気がついた。杉本さんが、対象になった。
杉本さんが立ち止まったのは、古びた喫茶店の前だった。影になっていて見えないけれど、おそらくスマートフォンを確認しているのだろう。しばらく止まったまま俯いていた彼が、店に入って行く。
彼を飲み込んだ喫茶店から少し離れた路上で、私は立ち尽くした。身体が止まったことで思考が動き出し、同僚を尾けてしまった罪悪感と夜勤明けの疲労が一挙に押し寄せてくる。今すぐこの場を離れるべきだと思うのに、両足は地面に貼りついたままだ。
いっそ店に入ってしまおうか。もしも杉本さんに気づかれたら偶然を装えば良いし、気づかれなければそのままで良い。
どうにでもなれ、という気持ちで店に向かって一歩踏み出した瞬間、扉から杉本さんが出てきた。後ろには見知らぬ女性の姿がある。この喫茶店で待ち合わせていたのだろう。並んで歩く二人が、こちらに向かってくる。逃げ場はない。慌ててスマートフォンを取り出し、イヤホンをしたまま歩きスマホをしている体で俯いて息を詰めた。親し気な様子で話しながら歩く彼らは、通行人など眼中に無いように見える。そうであってほしい、と祈りながら歩き、ついに二人の表情が分かる距離まで近づく。イヤホンで塞いだ私の耳に彼らの声は届かない。
すれ違う瞬間、バッグに添えられた女性の左手を見る。どの指にも指輪はなかった。
杉本さんの声を聞いたわけでもないのに、私は枯れ井戸になっていた。自分の鼓動がうるさくて、イヤホンを外す。雑踏の生み出す音という音が私の中に飛び込んで反響しては吸収されて消えていく。雑踏の中のどこにも、対象の色彩は無い。
息苦しさを感じて顔を上げる。枯れ井戸の私に降り注ぐ世界は、ほんの少し色褪せている。
〈了〉
最後までお読みいただきありがとうございました(*^^*)
本作は、noteでお世話になっている「文章・創作のサークル」様より発行される短編集(電子書籍版)に寄稿させていただいたものです。
テーマは「秘密・嘘」。
体調の問題等でなかなか思い通りに創作活動が進まず、サークル様にはご迷惑をおかけしました。そんな状態にも関わらず声をかけていただき短編集に参加できたこと、とても有難く思っています。
サークル運営の織田さん、秋さんに心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
文章・創作のサークルは今週末の文学フリマ東京に出店します。
当日来場を予定されている皆様、ぜひ【アー31、32】のブースにお立ち寄りください。
素敵な書き手の方々による力作が揃っています。
何卒よろしくお願いいたします!
※文フリについて、詳しくは下記の記事をご覧ください。
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