観念的三角定規
全員違うこと
日本セルビア映画祭に出演者の中野圭が観客として来ていた。
初号試写も来ていたから2度目の鑑賞になる。
最初はやっぱり自分が出演している映画は冷静に観れないと言っていた。
それが今回は、熟成されて面白くなった的なことを口にした。
より客観的に映画を楽しむことが出来るだけの時間が流れたということだろう。
まだ撮影時の風景などが生々しく記憶に残っている時は作品世界に完全に入っていくのは難しいのだと思う。
もちろん映画そのものは何も変わっていない。
まぁ、英語字幕は付いていたけれどさ。それだけ。
同じ作品を鑑賞した同じ人物が受け取り方が変わる。
こういうことって、なんというか落ち着いて考えると答えが恐くなる。
往々にして若い頃夢中になっていた音楽を今になって聞いてみたら、あれほど熱中していたはずなのに、やけに冷静に懐かしく聞いている自分に驚いたりすることがある。
当然だけど、音楽そのものは変わっていない。
時代や社会や、音響機器の技術の向上などはあるだろうけれど。
その理由を考えるだけで僕たちは背中を冷たいものが走る。
鑑賞者の心の内側で作品はいかようにも変容するということが証明されているからだ。
どんなに面白い作品も、どんなに退屈な作品も。
鑑賞する人のその時の体調や気分や状況。もしかしたらその日の気温や湿度や環境でも、まったく受け止め方が変わるということだ。
だとしたら作品で何かを表現したいなんてことはなんなんだ?ってところにたどりついてしまう。
全員違うのだから。
時間の概念
僕たちの存在している世界は、縦×横×高さ×時間の4次元だなんていう。
そのぐらい時間というのは絶対的な尺度のはずなのだけれど。
実際、感覚的にはまったく違っている。
友人と楽しく過ごせば時間はあっという間に過ぎるし、ストレスのかかる状態であれば5分が地獄のように長い時間に感じることがある。
子供の頃の一日と、大人になってからの一日。あるいは一年。その時間の流れ方の違いは誰でも感じているはずだ。
絶対的なもの
つまり時間は絶対的な尺度でも何でもない。
いや時間だけではなくて、例えば距離も広さも全てが違う。
時には近く感じたり遠く感じたり、広く感じたり狭く感じる。
僕たちは絶対的な尺度の中に生きているのだけれど。
実際はそこには生きていないのだろう。
絶対的なものは全て、感覚なのだということだ。
感覚的に生きているのだ。
五感で世界を受容して脳内で微弱電流になる。この時点で全ての人がオリジナルの脳内で分析された世界を構築し始める。
僕のみている景色は誰から観ても同じ景色ではないし、僕の聞いた音楽が誰が聞いても同じ音楽である補償なんてどこにもない。ましてやその日その時の気分や状態、環境で全く違ったものに変わってしまう。
感覚こそ全てなのだということだ。
だからヴァーチャルリアリティを完全に構築すれば脳はだまされるだろう。現実との境目などあっという間に曖昧になっていく。テレビゲームでレースなんかをやると体が傾いてしまうように、肉体は高度に情報化された状態では完全に騙されてしまうということだ。
作品の完成
だからこそ作品の本当の完成は鑑賞している人の脳内で行われるのだと僕は思っている。
その時間を、その感覚を共有して、心が動いたりして。
そして脳内に残るモノ。
それが映画の完成。
とっても個人的でその人しか持っていない体験として刻まれるモノ。
現実すら曖昧なものだというのに。
絶対的な尺度すら感覚的なものだというのに。
そこにさらに何かを残そうとしているのだから。
なんというかきっと空虚なことをしているのだと思う。
生きることそのものが本質的に空虚なもので、空虚を空虚としたくないものが何かを表現しようとしているのかもしれない。
映画の上映時間ってまさにそういうものだ。
3時間近くてもあっという間に感じる作品もあれば、短編なのに長く感じる作品もある。多分きっと作品にはジャストな時間があって、5時間必要な作品も3分で良い作品もあるわけで、時間なんて関係ないのかもしれない。
なんだか濃縮されたような時間を感じることだってある。
観終わってから楽しかったんだけれど、考えてみると記憶がスカスカなことだってある。
そういうのもきっと受け止める人によって違うから両方の意見が出てくる。
観念的三角定規
だからきっとさ。
映画だとか、音楽でも演劇でも絵画でも小説でもいいのだけれど。
それは観念の物差しになる。
全てのことが感覚的なわけだけれど。
全ての人と違うわけだけれど。
多くの人と同じ感覚だと思って安心したい人もいるだろうし。
かっこいいと思っている人の感覚に近い感覚を持ちたい人もいる。
そこに作品があれば曖昧だったはずの現実に絶対的な価値が生まれる。
新しい価値を探したい。
僕はずっとそう思って色々な作品に出会ってきたような気がする。
僕が生きている世界は僕の脳内にあるものなのかもしれないけれど、曖昧なままじゃなくてもっとこんな世界だと掴み取りたいのかもしれない。
定規でも時計でも測れない感覚というやつに僕は観念的三角定規を探してる。
それだけのことだけど。
それ以上に大事なことなんかないと思うよ。ホントに。
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