泣きじゃくる子供
強いとか弱いとか
人は誰でも弱いものと言ったり。
あの人は強い人だと言ってみたり。
ああ自分が今弱っているなぁと感じたり。
なんだろう?強いとか弱いとか、基準なんてないのに。
強さだってなんだか色々な強さがあるだろうに。
鉄を強いと青銅の時代に言ったわけだけれど。
本当の強さは、柔らかさの中にあるなんて言い出してさ。
「強か」とかいて、したたかと読んだりさ。
たぶんさ、何かと比較してということなのだろう。
強い人とか、そういう言葉は自分と比較してってことだろう。
そうなんだろうなあ、きっと。
そんなことをなんかガキの頃から思ってた。
矢面に立つ
大抵の人は矢面になんか立ちたくないはずだ。
出来れば攻撃なんか誰も受けたくないのだから。
痛みなんかシェア出来そうに見えて出来ない。
結局、誰かの痛みになる。
誰かが矢面に立っている。
風になびく柳のように受け流す姿。
極論を言えば、誰が悪いとか誰が良いとか、見る角度で変わる。
でも人はそのままだと落ち着かないから結論をつけたくなる。
誰かが悪いと口にすれば全ては丸く収まることなんかは日常茶判事だろう。
問題があれば誰かが悪いことになる。
でもほんとうはそうじゃない。
全体がなにか目詰まりを起こしてる。
僕はその時。
あいつが悪いと言う側に立ちたくない。
ああ、あいつが背負ってくれているんだなぁってわかりたい。
矢面に立つ覚悟がないなら、無理するなと言ってやりたい。
その覚悟を持っているのなら理解できる人でありたい。
泣きじゃくる子供
つい昨日、ガチャガチャの前に座り込み泣きじゃくる子供をみた。
やだー!と好きなだけ大声で叫び、地面に座り込んで泣いている。
どうしてもそのガチャガチャをやりたいらしい。
目の前には赤ん坊を抱いている母親。
やらないよとだけ言って、じっと見ている。
子供は一向に泣き止まない。
昔だったら、まぁこっぴどく怒られた。
げんこつぐらいはもらったかもしれない。
でも今は公衆の面前で子供を叱ればおかしなことを言われかねない。
今のお母さんは大変だなぁなんて思う。
「叱らないでも子供は育つ」なんていう言葉があちこちに並ぶ。
そりゃ、叱らないでも育つだろと思いながら。
お母さんたちの心の問題はどうするの?と思う。
良い時もあれば、イライラしている日だってあるだろうさ。
お母さんの気持ちがあるから、子供は人の気持ちを考える。
そこをすっとばして叱るのはダメだだけじゃ、やりきれないだろうなぁって思うよ。
街中のガチャガチャの前で罪のない子供と矢面のお母さん。
子供に罪はないけれど、あの子は困っている赤ん坊を抱いたままのお母さんの気持ちがずっとわからないままになっちゃうんじゃないかって心配になったよ。
そしてお母さんに溜まり続ける何かを思うとつらくなったよ。
たかが、ガチャガチャ一つでさ。
母は強い。とかそんな言葉は魔法のようなものだ。
敗者の強さ
負けるのは弱いからかもしれない。
僕は振り返れば負けてばかりだったなぁってよく思う。
もっとも、何をもって勝ちなんだかわからない場所なんだけど。
金儲けしたから勝ちなんて人間にはなりたくないし。
勝ち組なんて言葉が流行ってたころは、鼻で笑ってた。
でも、負けてるなぁっていつも思ってた。
誰となんの勝負をしてるんだって。わからん。
そもそも強くあるべきかどうかも。わからん。
ただ言えるのは。
僕は叱咤されるのは平気な人だということだ。
というよりも叱られることは自分の成長に繋がると考えている人だ。
ただしそれは僕個人の話だけれど。
僕の周りの人をみてもそんなにいない。
だからあまり人を叱ってはいけない。
だけど、僕は叱っていいよ。好きなだけ。
傷つかないわけじゃないけど。まぁ平気。
たとえばそれが八つ当たりでもいいし。
わかるもん。あ、八つ当たりか。そっかそっかって。
今、とっても叱りにくい世の中だからさ。
僕にも気を使う人はたくさんいるけれど。
僕は大丈夫ですよ。ぜんぜん。
それを敗者の強さと呼ぶべきか。
それはどうだろう?どんなんだろう?わからん。
馬鹿にするならしてもいい。そのぶん馬鹿にするけど。
その代わりいつか真剣に向き合おう。
結論
人は誰でも泣きじゃくるってことだ。
子供は全身全霊で泣く。烈火のごとく。
それは最強かもしれん。
だが全身全霊では泣けなくなる。いずれ。
唇をかむようになる。
我慢できるほど強いと言われる。
そして誰かを弱いと言い出すのさ。
そして自分を弱いと言い出すのさ。
わからん。矛盾だらけだ。
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