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演者の言葉

再びの良き報せ

良き報せが届く。
近いうちに発表できるはずだ。
一歩ずつ、着実に。

パンフレット

この週末でかなり大きく進んだ。
今週末には仕上げて入稿したい。
ちょっと大変そうな部分もあるにはあるけれど。

豪華な一冊だなぁとすでに感じている。
映画『演者』のオフィシャルパンフってなんだろう?
そんなことを考えるところから始まってこれになった。
「演者の演者」がテーマ。出演者たち。
オールキャストインタビューをフリーワードで掲載した。

とにかくそれぞれの言葉たちが面白い。
似たような言葉を残していたりもしてそれが意外だったり。
フリーワードだから長さも全然違っていたり。
「演者」という作品を観た人だけが楽しめる内容だけれど。
物語を越えたもう一つの演者という枠組みが見えてくる。
なんだろう、この感覚は。
あまり感じたことのない感覚かもしれない。

広さと深さ

正義っぽい作品って世の中にたくさんある。
それこそ世直しを目指している作品とかさ。
それはそれでいいし好きな人たちが集まればいい。
プロパガンダとしては好きな人だけが見ても成立しないけどさ。

一方で映画の世界にはその正反対のものもある。
ピカレスクものとかさ。ノワールとか言い出したりさ。
別にあれを暴力肯定の映画だなんて思わないし。
むしろ正義を謳う作品よりも好きかもしれないのだけれど。
人間の本能に近い部分はどう考えたって正義だけじゃ描けない。

要するに映画とか小説とか懐が広い。
テレビじゃ放送できないことまで作品として成立する。
映画というジャンルは懐が広いけれど、作品単体はかなり狭く絞ってくる。
そうやって絞って広さは出せないから深さを探し始める。
どこまで徹底できるか勝負みたいなのがある。
僕としてはその辺をわりと俯瞰で面白れぇのって楽しんでる。

攻撃性

人はもともと攻撃性を持っている。
それは疑いようがないことだ。
でも自由な社会において、誰かの自由を奪うことはルール違反だ。
だから誰かを攻撃することに関してはどんどん厳しくなっている。
攻撃すること自体がネガティブなことのように拡がっている。

僕はそれを良いことだとも思うけれど同時に危険なことだと思う。
攻撃を非難することはあっても、攻撃性を非難してはいけない。
だって非難した本人の中にも攻撃性が必ず存在しているから。
誰だって自分の中にある攻撃性を知っているはずだ。
へたにそれを否定すれば自己否定に繋がっていく。

攻撃性のようなものが暴力になるのは当然良くない。
けれど攻撃性が時に大きな力を生んだりカタルシスを生み出すことを僕たちは良く知っている。怒りのようなエネルギーは表現で強いバックボーンになる。爆発的な瞬間を生み出す。

映画は懐が広いし、作品は深さを出していくけれど。
結局、僕はそこに攻撃性をどのように扱っているのかを観ているのかもしれない。
自分の中にある攻撃性と、自分の自意識とのスタンス。
そういうものはすべて映像に残るんだなぁと最近、感じていて。
たとえば全体を通して何も起きない退屈な作品でも、ああ攻撃的だなぁと感じることはあって、そういう作品を今の僕は求めているのかもしれない。

役者の言葉たち

役者の言葉たちを読んでいるうちに気付いた。
映画「演者」は僕が想像した以上に攻撃的な作品なのかもしれない。
まだ撮影前の段階でとある方に初稿を読んでもらったら「作家性が強い」という言葉を頂いたのだけれど、作品全体に攻撃的な部分があるとすればそれはやっぱり僕自身の中にあるものなのだろう。
もちろん僕自身もけっこう攻めたぜ!みたいに思っている部分はあるのだけれど、そういう想定を超えているように今は感じている。
ああ、こういう部分も攻撃的だったのかと気付かされている。

気付かない人は気付かないだろう。
それもまたオツ。
それならそれで別の楽しみ方もある。

演者の演者たちの言葉は作品の芯の部分に触れていた。

投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。