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2020年

東京五輪が近づいてきている。
生きている間に自分の住む国でオリンピックが開催されるなんてことがあるんだなぁと決定した時には思った。開会式では誰が演出を手掛けるのかなぁなんて思った。それがもうあっという間に今年の開催なのだから驚く。

子供の頃からオリンピックは見てきた。冬季にしても夏季にしても、学校が休みの期間だし、親戚に体育教師をしているスポーツが好きな人がいたから色々なスポーツが常にテレビで流れていた。父親は柔道が好きで一日中柔道を見ているような夏休みもあった。

オリンピックが持つ意味はとても大きいのだと思う。
大河ドラマ「いだてん」でも描かれていたけれど、平和の祭典と言われる世界で一番のアマチュアスポーツ世界大会は、戦乱の歴史や、差別の歴史、そういうものを乗り越えて続いてきた。政治利用されたときもあったし、そうじゃなかったこともあった。現代においてはテレビ放送と言うほぼリアルタイムで全世界中継が出来るようになって放映権やスポンサーなど、大きな利権に繋がりすぎているしチケット代も高騰していることもあって、金儲け主義だなんて言われている。そんな金儲け主義なんていう形もいずれはもしかしたらオリンピックの歴史の一部になるんじゃないだろうかなんて思う。
放送形態はネットの登場で更に変化していくことは間違いないから。膨大なコンテンツはいずれ時代を越えた選手同士を戦わせることだって可能にしていくように思うから。
今のチャンピオンの100m走のすぐ横にカール・ルイスが走り、どのぐらい昔より早くなったか可視化されるのも時間の問題なんじゃないだろうか。
そうなった時にコンテンツとしていつまでも金儲けだけではやっていけない気がする。テレビ放送ではなく、ネットによる配信になれば価値観が激変してしまうんじゃないだろうか。

良いことも悪いことも含めてオリンピックなのだと思う。
楽しみな競技はあるし、スポーツにまるで興味のない人もいるだろうし。
多様性という意味では、両面あっていいんじゃないだろうか。

演劇と言う場所に長くいて。
映画という場所をたくさん知って。
今、自分たちは多くのことを試されるんだなぁと痛感している。
なぜなら創作の世界に生きる者たちにとって、スポーツと言う筋書きのないドラマにはいつだって頭をポカリとやられてしまうからだ。
こんなドラマに勝てるわけがない、そういう場面に何度も何度も出会うのがスポーツだ。勝者だけじゃない。敗者も、あるいは観客も含めた、その場で生まれ続ける物語は、創られた物語が永遠に持つことのできないリアリティと驚きで溢れている。もちろん創作に関わる以上、それ以上に面白いものを常に目指し続けるけれど、創作が現実を越えるというのはとても体力が必要なことなのだと思うよ。

この年に、この国で、役者として存在している自分。
あのアスリートの一瞬の表情に負けない感動を自分は表現できるのだろうか?

サッカーのワールドカップのベスト8ぐらいからの決勝トーナメントの時期になると、街からヒトケがなくなるなんて耳にした。とある劇団はサッカー日本代表戦のある日は舞台公演を避けるなんて言うのも聞いたことがある。スナックなんかは閑古鳥が鳴くなんて話も聞いた。
それが今回は日本でのオリンピック。それも夏休みに入ったと同時期に開催される。日本の娯楽施設は戦々恐々としているんじゃないだろうか?時差がないから朝から晩まで夏休み中、テレビでスポーツをやっているのだから。大きな予算をかけた映画はあえて公開時期をずらすかもしれないし、もしかしたら海外映画ばかりが公開される年になるかもしれない。東京都内はともかく、それ以外の遊園地やプール、海水浴場も、どうなるだろうと気が気じゃないかもしれない。観光地はまだ外国人観光客が押し寄せるかもなんて期待しているかもしれないけれど、普通の街の常連だけで持っているような呑み屋さんは何割ぐらい客足が減るだろうなんて考えてる。
なんとすごいコンテンツなのだろう。オリンピックは。

セブンガールズを上映してくださったミニシアターと呼ばれる自主運営の映画館たちもきっと戦々恐々としている。ミニシアターの顧客層は想像しているよりもずっと高齢層だった。その人たちがテレビに張り付いてしまえば、シネコンなどと違って資本と言う体力が限られているミニシアターは死活問題になってしまう可能性すらある。ただでさえ毎月のように閉館のニュースを見かけるのに、大変な夏になるのかもしれない。

オリンピックは楽しみだけれど。
その光には強烈な影が出来るのも事実で。
そんな時に表現をする者は何が出来るのかというのは今年の大きな大きなテーマになる。

セブンガールズで美術を担当してくださった杉本亮さんがプロデュースした舞台をお手伝いする事でご縁が出来て、映画「泣き虫しょったんの奇跡」にほんの少しとは言え出演させていただいた豊田利晃監督がその東京五輪の開幕日の同時公開に向けて映画製作をするという。多くの映画監督たちに本音を聞けばオリンピックの時期には映画を公開したくないというのが本音じゃないだろうか。そんな時にあえて挑戦をしようと言う。
その言葉の中に「分断と不寛容の時代に」とある。

​https://motion-gallery.net/projects/HAKAInoHI

​ああ戦う人がいるか。
そうだよなぁ。
自分は何が出来るだろう?
やはり戦うべきなのだろうなぁ。
表現と言う名の戦いを。

その言葉の向こうに。
多様性と寛容の時代を感じたい。
平和も自由も感じたい。
スポーツの豊かさと、文化の豊かさの、真の両立を探したい。
自分にとってどんな2020年がやってくるだろう。
分断された谷を渡る橋はどこにあるだろう。

良くも悪くも。
このシチュエーションの中で役者であるなんてことは奇跡のめぐりあわせなのだから。
何もできないのではなくて、何を為すかを考えないと。
あっという間に夏は終わっているぜ。

東京五輪の賛否はともかく。
物語を生きる者として。



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