ハイパーメタ構造

チラシ完成

チラシの裏面を劇場側に確認してもらった。
ああでもないこうでもないと色々にいじくり。
場面写真を入れたり、写真加工をしたり、文字を入れてみたり。
たくさんの回り道をして結果的にシンプルな構成になった。
まぁシンプルに見えて、RAW現像からやり直したけれど。
確認が済んだ。つまり完成した。

といってもとりあえず白帯の完成。
映画のチラシは基本的にB5サイズで裏面の下に白い帯を用意する。
ここに映画館が映画館の名前のスタンプを押したりするからだ。
けれど今回は一番館だから最初からロゴも印刷してしまうつもりだ。
ケイズシネマからロゴを受け取り配置したものをもう一度送信。
入稿するとすればその確認後。配布はもっと先。
入稿したとてそのままポスター制作に入るだろう。

初版のチラシはちょっと紙を変えようとか思っている。

・・・ってすごいな。公開までの道程が全て公開されるのか。

メタ構造

メタ構造な作品が好きだなぁと感じたのはいつからだろう。
多分最初に好きになったのは、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」のハードカヴァーを読んだ時だったと思う。おばちゃんからプレゼントされた分厚い本だった。むさぼるように読んだ。
読み進めると、その本が小説の中にも出てくる。主人公が読む本が今、自分が読んでいる本という二重構造になっていく。物語の終盤には主人公が話しかけている相手が自分なのではないかとどんどん感じていく。
現実とフィクションの倒錯。

ミステリーも好きなのだけれどその中でも叙述トリックが好きなのは、トリックそのものがメタ視点でのトリックだからなのだと思う。トリックが小説の書き方というのはなんとも言えない読後感があった。

映画なんて、そもそもメタな視点から生まれたじゃないかって思う。
だって箱の中を馬が走っている幻灯機が起源なのだもの。
フィクションが現実に追いついちゃった衝撃が映画を生み出した。
現代からみれば映像なんて当たり前のものだけれど当時は動く写真はあまりにも衝撃だったはずだ。その衝撃そのものがエンターテイメントだった。
ヒッチコックがスクリーンから客席に話しかけたりさ。
どうやって現実とリンクさせるのかはずっと大事な要素だった。
「仁義なき戦い」のあの有名な手ぶれの喧嘩シーンは初めて観た時、衝撃的だった。ビデオだけじゃなくて映画館で観たいと思って名画座まで観に行った。

そのあとモキュメンタリーとか、3DCGとか、ワンカットとか、本人登場とか、様々な形で「ウソの物語」を現実と交差させる方法が発見されてきた。

演者の演者

映画「演者」は、子供のようにふるまう登場人物を演じているかどうか疑っているという物語だ。この時点でメタメタになっている。
映画「演者」の演者たちは、演じているかどうか疑うことを演じていたりする。というか、そもそも全員演じているから作品になっている。
作中の芝居も、儀式や様式美のようなフィクション度の高いシーンから、フィクション度の低いシーンまで意図的に配置している。
もちろんそんなことはもう観ていてもあまりわからないと思う。
それはテーマだけれど、そんなにはっきりと提示しているわけではないから。

ただ試写でも映画祭でも鑑賞してくださった皆様の言葉に僕は、ああ、メタ構造が成立しているなという手応えを何度も何度も感じた。
物語の感想だったはずなのに、現実世界の自分の話のをし始める。
どこかでフィクションが浸透し始めてる。それが狙い通りの場所なのかまでは本人じゃないからわからないのだけれど。
それはどこかで「ほんとう」の物語になっているということだ。

何度も繰り返した稽古でも、撮影中でもずっと意識していた。
そういう演出の言葉も何度も出していたはずだ。
まだ観ていない人には何が何だかわからない話だけれどさ。

このBLOGで

メタ構造が更にハイパーメタになるのがこのnoteになるのかもしれない。
だって現実に公開までの道程を書き綴っているのだから。
まぁ、全部本当のことを書いているのかもわからないか。
このBLOGが実は小説の可能性もあるのか。だましていたりさ。

小説じゃなかったとしても。
いつの間にかファンタジーの世界の住人になったりする。
そういうことって普通に起きる。
憧れの人にあった時に、本当に実在したんだ!なんて思うように。

そうやって二重にも三重にも位相が重なっていけばいい。

なぜなら僕がそんな映画体験をしたいからだ。
うそっぱちだらけの世界で「ほんとう」を探したいからだ。

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小野寺隆一
投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。