未来を考えることの難しさについて
「将来自分はどうなりたいのだろう」、「これまでやっていること、今やっていることが未来に繋がっているのか?」こういう疑問は、生きていたら一度以上はぶちあたる疑問な気がする。
こういうとき、ある人は、「わからねえー」というふうに思考のループに入るのかもしれないし、またある人は、意図的に考えないようにするという行動をとるのかもしれない。
もうすぐ大学四年間が終わりを迎えそうで、もの懐かしい気持ちになりながら、僕も考えていた。
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思えば大学生は行き当たりばったりだったな、と思う。
もともと考えていた「あったであろう」四年間にはない、
人と出会い、経験をし、道を選んできた。
例えば、留学を考えていた僕や院を考えていた僕もいたが、
今の僕は、その先にあった僕とは違う僕だ。
道を選ぶということは、将来のあったであろう自分を捨て、
今の自分を作り上げたということでもある。
その自分は、偶発的に生まれてきたものなのだ。偶発的ということは、予想は難しいということ。
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ただ、人生そんなもんなのではないか。
今、自分がやっていることが、将来のためになるか、未来につながるのか、んなんてことは、イエス!、とはいえない。
どちらかと言うと、
「将来につながるかわからないから、必死につなげる」
なんだと思う。
これからも「今やっていることが何のためになるのだろうか、と疑問に思う
ことは必ずある。でも、それでいい。
何のためなのかわからないことは、裏を返せば、どんなワクワクする未来に繋がるかはわからない、ということなのだから。全てがわかりきった人生よりも何倍もましなのである。
今はなきスティーブ・ジョブスもそんなことを残していた。
将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。
"You can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future."
スタンフォード大卒業式(2016年6月)より
自分がやっていることが、未来という偶発的に生まれる点に繋がっている気がしないとなんとなく不安になる。
なんでやってるんだろ。みたいに自暴自棄になり、未来への保証を求める。
でも、意味があるかなど、はっきりとはわからないものだし、
わからなくてもいいのだ、それを楽しむのだ。
わからない未来に対して決まっていない行動をできるのが、人間だからこそだ、と思うから。