氷も投資対象だった時代がある【投資の日】
毎年10月4日は投資の日!
本日10月4日は投資の日です。
投資の日は日本証券業協会によって、より多くの方々に証券投資に興味、関心などを持ってもらうことを目的に制定された記念日です
由来は「とう(10)し(4)」(投資)という語呂合わせからです。
なお日本記念日協会には、正式には「証券投資の日」として登録されています。これはやや複雑な経緯があり平成15年(2003)に「証券投資の日」として認定、登録されました。
その後、もっと幅広いジャンルで投資に興味関心を持ってもらいたいと平成21年(2009)に名称を「投資の日」と変更になりました。
しかし、平成29年(2017)からはまた「証券投資の日」として日本記念日協会に再登録されたようです。
いずれにせよ、証券業界ではこの日を中心に、全国各地で様々な投資の知識普及のための活動につとめているようです。
氷も昔は投資対象だった?
実は、昔は氷もある意味投資対象であった時期がありました。
かつて冷凍、および冷蔵技術がまだ発達していなかった時代、熱帯の植民地に住む富裕層などの間では、暑さをしのぐために氷のニーズがありました。
しかし、流通する氷は北国から来る船にバラスト(バランスを取るための重し)などとして積み込まれたもので、そのうち融けきるまでに輸入できた分だけでした。
この「氷貿易」にいち早く目をつけたパイオニアが、1800年代のアメリカの実業家、フレデリック・チューダーでした。
1806年に、実業家のフレデリック・チューダーによって、アメリカのニューイングランド(めっちゃ北、ほとんどカナダみたいなとこ)で氷の貿易が始まりました。
当初、氷は高価で貯氷庫(氷冷式の冷蔵庫兼、氷自体の保管庫)を持つのは裕福な人々だけでした。
しかし、1800年頃には貯氷庫が一般的になり、冬に凍った湖や川から切り出された氷が供給されました。
特にボストンは世界的な氷の産地となっていき、世界初のブランド氷「ボストン氷」となりました。
ニューイングランドと隣接する地域で経済が発展するにつれ、氷の需要が増加し、氷を販売する市場が形成されました。
チューダーは、氷を西インド諸島やアメリカ南部の富裕層向けの贅沢品にしたいと考え、新しい市場を独占しようとしました。
特にカリブ海一帯を潜在的な市場と見なし、氷を輸送するための船に出資しました。
最初のチャレンジでは輸送中の氷は融けきってしまいましたが、チューダーは諦めず、カリブ海に浮かぶ島国キューバの首都ハバナに、氷の倉庫を建設し貿易を再開しました。
さらに法律によって一時的に貿易が禁止されるなどのトラブルがありつつも、チューダーは現地に貯氷庫を持っていたため、独占を維持しました。
彼はさらに氷の輸送船で果物を本土に持ち帰るビジネスも始めました。
氷自体が商品となるだけでなく、氷の温度を下げる効果を活かしたビジネスですね。
氷の供給先は広がり、競争が激しくなると氷の価格も変動しました。
多くの商人がチューターのビジネスに追随し、氷貿易に参入したのです。
このようなトレーダーの増加に加え、さらに氷は天候などによって大きく需要が変化し、冬という一時期にしか生産できないため供給が限られ、また当時は氷を安定的に輸送、管理することも非常に難しかったことが、氷を投資の対象へと変えていきました。
1800年代のカリブ海は、プエルトリコのロビンフットとも称される海賊コフレシなどが名を轟かせた、大海賊時代であると同時に氷という儚い贅沢品を巡った、大トレード時代でもありました。
チューダーは競争相手に対抗するために価格を下げ、時には利益を度外視して氷を売りました。(今の価値観では不当廉売として怒られるやつですね…。)
競争相手は値下げに対抗できず、在庫の氷が売れないまま融けてしまうこともありました。
このような場合、現地の倉庫に十分な在庫のあった用意周到なチューダーは、再び価格をつり上げることができました。
やがて市場は独占されていき、1820年代にはボストンから年間約3,000トンの氷が出荷され、そのほとんどがチューダーの貨物となりました。
氷トレードの終わり
やがて冷凍、冷蔵の技術が誕生し、機械製氷が可能になると、わざわざ氷を北国から輸送する氷貿易は少しづつ衰退していきました。
特に氷貿易で使われる氷が天然氷だったことから、当時流行していたチフスなどへの恐怖感から、より衛生的な氷が求められ、川や池に自然に形成された氷を切り出す天然氷の人気不振につながり、それは氷貿易をさらに衰退させました。
ですが、1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、事情が変わりました。
戦争中には、戦火にあるヨーロッパへ輸出する食糧の需要が大きく伸び、それとともに冷蔵用の氷需要が急増しました。
さらに戦争に向けて弾薬の製造に力が入れられたため、当時の製氷設備に必要だったアンモニアと石炭の供給が不足しました。
そのためアメリカ政府主導で、飲食用の氷の負担軽減のため、冷蔵には非飲食用の天然氷を使うように広報が努められ、ふたたび氷貿易も盛んとなりました。
しかし、これが氷貿易最後の時代であり、戦後はさらに発達した製氷技術の裏で、氷の貿易は行われなくなっていきました。
現在では北極の氷や氷河の氷が、ブランド的な価値をもって少量輸出されるのみです。
氷の価格、需要を安定させた「氷券」
一方日本では「氷券」と呼ばれる氷の前売券が、明治40年頃から氷屋で売られるようになりました。
価格の変動が激しかった氷は、特に値が大きく上がる夏などに、高い価格で氷を買わなくて済むように前もって氷券を購入しておくということが一般的に行われていたのです。
これは個人が生活のために購入するだけでなく、夏の贈答品としても最適とされていました。
これらも氷価格の変動によって価値が変化するため、投資的な価値をもっていきました。
しかし、元々氷の価格や需要の安定を目的としていたこともあって、やがて他者への譲渡や販売が禁止されていきました。
現在でも一部の氷屋で氷券の販売が行われています。
定期的に氷を仕入れる方は、なにかと便利なので是非お近くの氷屋さんに扱っているか聞いてみるのもよいかもしれません。(小野田商店では氷券は取り扱っておりません)
氷屋はかつてパイオニアだった
このように、氷を利用する文化というのは人類史全体でみれば比較的最近になってから広く普及したことであり、またその短い中でも産業革命や戦争などに翻弄されその役割や形を変えていきました。
歴史といった長い目で見なくても、天候や季節で大きく需要や価値が変動する氷ビジネスにはいつも先見の明が求められ、その気質がかつてはパイオニア的な精神を育んできたといえます。
現在は急速冷凍の製氷機が普及し、ご家庭でも冷蔵庫のトレーで簡単に氷が作れる時代になり、氷屋の氷はこだわりのあるバーや料理店などで使用されるある種の贅沢品となったことで、少し氷業界も伝統を守る側面ばかりが取り上げられるようになりました。
しかし令和になり、ますます時代の変化は激しくなりました。
小野田商店は激動の時代でも、常にお客様に氷と笑顔を届けられるように、かつての氷屋のパイオニア精神に見習い、これから進化していきます!