【ネタバレ】ザリガニの鳴くところ|タイトルの意味を英題から考える
「ザリガニの鳴くところ」の原書、"Where the Crawdads Sing"を読了しました。
5日かけて読みました。序盤は途中で寝ちゃったりしましたが中盤から俄然面白くなり、最後の5日目には自己最高の読書スピード、分速175語で読み切りました(最高にノッてた証拠です)。
読んだ後に、タイトルの意味は?と疑問が湧き調べましたが、原題の"Where the Crawdads Sing"を英語知識を基にして解釈し解説している人がいないようなので、辞書を引いたり自分で考えたりしてみました。
物語での使われ方
「where the crawdads sing」という言葉は小説の中で全部で5回使われていますが、そのうちの3回は同じシーンの二人の会話シーンで使われますので、実質物語中で3回登場すると言えます。
そのうちの2回めでより突っこんだ言及がなされます。
ジョディが以前話したこと、雌ギツネは状況が悪くなると自分の子を見捨てて飼育を放棄するが、状況が好転するとまた再び生まれた子をちゃんと育てるようになる、という話を主人公Kyaは回想し、経験を積んだ今ではそのことがよく解る、そういうことは「the crawdadsの鳴くところ」で行われているんだ、と述べます。
「Crawdad」の意味
"crawdad"は"crawfish"の同義語です。そこで"crawfish"を辞書で引いてみます。
「where the crawdads sing」は、雌ギツネのような変節者、変わり身の得意なもの、状況に適応する能力を持つものが鳴くところ、大自然の奥地、人間の手の届かない所、というような意味で物語上では使われている感じです。
しかし本当にそれだけの意味しかないのでしょうか?
crawfishの「しりごみする人」という語義に注目です。
念のため英英辞書で調べます。
動詞として「役割や約束から手を引く、退く」とありました。
名詞として「尻込みする人」という意味は見つかりませんでしたが、crawfishという語に後ずさりしがちなイメージを持っていることは想像できます。
「crawfish meaning slang」で検索すると、
When crawfish is used as a slang verb, it's typically used in a mildly negative way to indicate that someone is backing out of something they should do or take responsibility for,
と出てきて、「果たすべき責任から逃れる者を指す」と無責任な感じが強まりました。
「変節者」はもっと踏み込んだ意味になりますが、ネットでなくアナログの英英辞書には載っているのかもしれません。そうでないと講談社英和辞典に載っている理由が説明つきません(後日調べることにします)。
主人公Kyaは常に人間社会から距離を置き、尻込みしながら生活していました。
そして最後には殺人の罪を償わずに、果たすべき責任から逃れて余生を送りました。
つまり"the crawdads"、ザリガニとは Kyaのことを暗示していると推察できます。
「Sing」の意味
crawdadイコールKyaだとすると、"sing"の意味も自ずと明らかになってきます。
物語上においてたびたびアマンダ・ハミルトン作の詩が登場します。
Kyaはこのアマンダという人の詩に支えられながら生きているのだということを読者は読み取ります。
ラストで実はアマンダとは Kya自身であり、主人公は学者であると同時に詩人でもあったと判明します。
とすると、"sing"の意味は詩を「詠う」ということではないかと思われます。
ちょくちょく出てくるアマンダの詩からその時々の Kyaの心理面を読み解けるようになっているので、詩の中身が物語に於いて重要な鍵となっているのですが、英語の詩を読み解くのは非ネイティブには難しい、のですが一番最後の詩は比較的楽に読み解けます。
それは「変節」を肯定しているように受け取れる詩でした。
日本語版は読んでないので、自分で翻訳してみます。
書かれていることは一見何でもないようですが、こうして実際に紙に書き記したことが、彼女自身が変節を自ら受け入れ肯定したという証になっています。
文字を綴るというのはイコール何かを肯定したり、何かを自分の中に受け入れそして外へ解放する行為なのです。
変節者としてのホタルの行いを書き綴ることで、Kyaは自分の殺人を自分で受け入れ、かつ外部へ解き放ったのです。
彼女自身が大自然の側、最後まで人間側に歩み寄らなかったことがこうしてラストで明確になります。
「Where」の意味
このように大自然に寄り添い詠いながら生きてきた彼女の"where"とは、住処という意味もあるでしょうが、詩を詠うところというのはつまり彼女の脳内、いやむしろ心の裡のことではないでしょうか。
この物語は詩が重要であると同時にその基となる「言葉」もまた重要な鍵なのですが、彼女が藁にも縋る思いで生き抜いて獲得した「言葉」の最も顕著な成果物である詩、それを生み出した彼女の心の奥底、そここそがこの小説の最も大事な部分だと著者は言いたかったのではないか。
ところで Kyaの作詞と殺人との共通性にも注目です。
彼女は詩を作ることで外界を自らの内へ受け入れ解放したように、チェイスと恋仲になることで彼をまず受け入れ、それからあの世へと解き放ったとも言えます。
言葉を学び、作詞をし、殺人を犯す、この一連のシームレスな流れが彼女なりの「変節」の受容のあり方として一つの物語という形で表現されているわけです。
タイトルを訳してみる
そうしてできた物語のタイトルとなった言葉、「Where the Crawdads Sing」を訳すと、
「責任回避する変節者が詩を詠う、その心の深奥」
という具合になります。
さらに Kyaを著者の分身とみなすと、"where"は著者の内面とも取れます。
すると"sing"は「物語を書き記す」と意訳することもできます。
そうすると「Where the Crawdads Sing」は、
「変わり身の得意な女が紡ぐ物語、その作者の本意やいかに?」
という読者への問いかけともなり得ます。
著者はタイトルに「あなたに物語の最後まで展開を予想できるかしら?」という読者への挑戦の意味を込めたのかもしれません。
もっと直截に、「ザリガニの鳴くところ」という小説は「あなたに女の本心がわかって?」という女から男への挑戦状とも言える、と男の自分は感じました。
まあそんな挑戦的態度が著者にあるかはともかく、マイノリティという立場に常にさらされる女性としての在りよう、生き方の指針を提示している点で興味深い作品でした。
マイノリティとして社会とどう相対するかというのは個人的に他人事でないのでとても面白かったです。