自分中心でモノを考えてない?
4年生大学卒の私。大学生のころは、人間関係の合う合わないはあれど、周りにいた人たちはある程度自分と同じ環境、境遇を経た人たちだった気がする。遊ぶのも同じ大学生が多かった。
だから前提として同い年=4大卒というものが自然にこびりついていた。
「大学生である(であった)ことが普通ではない」
これは当たり前であるが、実際に最近私が強く実感したことである。
1.無意識自己中エピソード
最近会社以外のコミュニティに関わる機会が増えた。
そこには様々なバックグランドを持った人たちがもちろんいるわけで。
ある日、年下の女の子と仲良くなり、その子が
「卒論があって大変なんですよ~!」と言っていたので、
「そっか!4年生か!大変だよね~」
と返した。すると彼女は、
「いえ、専門なので2年生です。」
これは完全に無意識なのだが、私は頭の中で
卒論=4年生(4年生大学)という公式を勝手に組み立てていたのである。
そうか、専門学校にも短大にも卒論はあるのか。
他にも、同い年の子と話す際に、
「社会人2年目か~!(私はいろいろあって新卒1年目なのだが、同い年の4大卒の人は基本的に社会人2年目の人が多い。)」と話すと、
「いや、高校から働いているから今年で5年目だよ。」
と返されて自分の視野の狭さを実感した。
他にも、中卒で働いている人ももちろんいるし、大学院を卒業して私より何歳も年上だが今年新卒の人もいる。正社員ではなく、派遣の人ももちろんいる。
2.広い視点で見てみると
話の枠組みを大きくすると、
今の時代、必ずしも異性と付き合うわけではないから、
女性が付き合う人が必ずしも「彼氏」ではないし、
男性が付き合う人が必ずしも「彼女」ではない。
「恋人」や「付き合っている人」という表現が適切だろう。
実は私も、高校時代1年間留学に行っていたため、帰国してからは
1個下のクラスと高校時代を過ごしていた。いわゆる高校4年生である。
この時やはり周りは、同級生=同い年という感覚の人が多かったため、
「19歳で高校生をしている」となると「なにかあったのか」という目で見られる。
「どうして高校生をしているのか」と聞かれて経緯を説明するのも面倒くさかったので、18歳という体で話を進めていたこともある。
マジョリティがマイノリティを飲み込んでいく感覚。
マジョリティが故に、自分中心でモノを考えてしまう愚かさ。
厄介なのがそれが無意識ということである。
発言してからしか自分の愚かさに気づけない。。
もしかしたら私の無意識的自己中な発言に不快な思いをした人もいるかもしれないのに。。
3.多様への耐性
思えば私たちは子どもの頃から、
みんなと同じ=正しいという教育を施されていた気がする。
輪を乱さないためのルールや、周りに合わせるという空気感。空気を読むというのも日本ならではの文化なのかもしれない。日本は島国だからか、私たちはあまり「多様」に触れ合う機会がないように感じる。
飛び級などの制度もないため、(どこかではあるのかな?)自分と歳の近い人以外と関わる機会もあまりない。
どんどん自分と似てる人ばかりと関係性ができていき、そうじゃないモノは異物と感じ自然と遠ざかっていく。
多様への耐性がないのだ。
多様に触れ合い、広い視点を持つことで例えば、
自分と違う人を受け入れる心の広さにもつながるし、きっと学校内のいじめなども少なくなるのでは?(と、ない頭を使って考えてみる)
これからどんどん世界と日本、自分と他者との境界線が無くなり、近い未来、周りにいるのは自分とは全然違うバックグラウンドを持った、もしかしたら宇宙人かもしれない。
そうなった時に私は自己中にならず、自分基準でなく広い心で相手との「違い」や「多様」を楽しめるのか。もっと言えば、マジョリティもマイノリティも無く、もっとフラットにお互いの違いを違いと感じず接することができるのか。
ふとそんなことを思った1日だった。
と、まあここまで話を大きくするつもりはなかったんだけど、自分の考えの整理ということで。
今度そういった本も読んでみたいな~
キーワードは日本の教育論、空気を読む、多様性…とかかな
今回はここまで。意味の分からない文章を最後まで読んでくれてありがとうございます。おやすみなさい~👽
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