走り出せた(気がする)瞬間
要するにこんな話
初めて日向坂46についての記事を書いてみようと思う。
2024/7/4(木)に開催された11thひなた坂46LIVEに現地参加してきた。
大変満足度が高いライブであったのはもちろんのこと、このライブを通じて私自身の心境というかスタンスに変化があったような感覚があった。
その変化が何なのか、そしてそれがどのようにもたらされたのか振り返ってみようと思う。
うだうだつらつらとこねくり回して考えこみながらファンを続けなくても、もっと気軽に楽しめたら良いとも思うのだが、あいにくそういうことを考えながらでないと生きていけない。
大まかにまとめるとこのような話
東京ドーム公演以降に日向坂46ファンになった人間が
2年くらい流れに乗り切れてない気がしていたけれど
ひなた坂46LIVEを決定打に合流できたような気がする
このような場に書くということは読まれることを想定しているのだが、ここから先は上記の点に至るまでのアレコレを回顧しただけの駄文なので、物好きで暇な方だけ読んでいただければと思う。
日向坂46推し以前
まず、私がどういうバックグラウンドの人間であるのかを簡単に紹介しておきたい。
日向坂を推し始める以前に人生で全くアイドルを推したことはない。推したことがないどころか、興味関心の低さにより2021年中頃までの私は坂道グループでさえも極めて解像度の低い理解をしていた。
具体的に乃木坂46、欅坂46、けやき坂46(日向坂46)を事例として挙げると、
乃木坂46
→秋元康氏が関わっているが、どうやらAKBとはなんか違うらしい
欅坂46
→「二人セゾン」はどうやら乃木坂とは違うグループが歌っているらしい
けやき坂46(日向坂46)
→けやき坂に関しては存在自体を認識しておらず、日向坂は名前は知っているが曲はわからない
といった具合である。
したがって、この回顧はアイドルやアイドルファンに関する一般的な了解事項をほとんど欠いた偏りのあった(おそらく今もある)人間によるものであることをご了承いただきたい。
間の悪い推し始めと記録による物語の穴埋め
なんとも中途半端な時期に日向坂を推し始めたものだ、と今になって思う。
CDを買う程度に日向坂のファンになり、私が初めて買ったのは7thシングル「僕なんか」である。
したがって3回目のひな誕祭は終わった後、ということになる。つまり私は、けやき坂46が日向坂46になり、そして東京ドームへと向かう物語を共有していない。
だから何だ、というタイプの人であれば関係ないのだが、こういったコンテキストや物語を内包していないままファンを続けることに言語化されないモヤモヤを抱えてしまうタイプの私は、日向坂46の来歴を知ることでその空白を埋めようとした。
そんな私にとって、『日向坂46ストーリー』や映画『3年目のデビュー』、『希望と絶望』といった作品群は大変都合がよく、7thシングル期間中には概ね彼女たちの歩んできた道のりを追いかけることが出来た。
余談:
現在はそこまではないが、当初は一期生推しがかなり強めにあったのもこのあたりに原因がありそうである。日向坂46のコンテンツを歴史的な情報として受容した場合、どうしたって初期メンバーの情報量が結果的に多くなるからである。
しかし、このようにして埋めた空白は埋まったようで埋まっていなかった。結局のところ、これらは全てある種の観察者としてでしかなかった。誰かから借りたRPGを途中から遊び始めたような、いまいち乗り切れない感覚だけが私の中に残っていた。
共感しきれないアレコレ
こうした感覚は、ここ2年間で起きた四期生の加入や選抜制の導入など、グループに関する出来事に対するメンバーやファンの反応に対しても影響を及ぼす。
私にとってそれらの反応は全て、「東京ドームを「超えた」新たな出発点」からの言説に見えていた。
「超えてない」私には、「なるほど…」と一定の理解を示しつつも共感しきれずにいた。これまでの彼らの歴史やエピソードを知識としては知っていても、それを感情として共有できないもどかしさがあった。
はじまりに立ち会った瞬間
契機になったのは新参者LIVE、そして決定打になったのは先日のひなた坂46LIVEである。これら2つの「はじまり」に立ち会えたことは、自分の中でどこか歴史の当事者になれたような感覚があった。
新参者LIVEでは、四期生が自信を持って前に進みだした瞬間を目の当たりにし、彼女たちの成長と挑戦は新たな始まりを象徴していた。ひなた坂46LIVEでは、選抜制導入後の初ライブということもあり、名実ともにまた一つの新たな章の始まりを示していた。
それとともに私は、メンバーの言葉によって私は深く心を揺さぶられた。
例えば、
であったり、
といった言葉である。
今までもメンバーは同様の言葉を発していたと思うのだが、これらのライブの時になって初めて私にとって特別な意味を持った。。
これまで観察者として見ていた自分が、彼女たちの言葉によって当事者としての位置に掬い上げられたと感じたのだ。この感覚は、これまでとは違う新しい一体感を私にもたらした。
走り出せた(気がする)瞬間
かくして現在のところ、私は当事者として上手く流れに合流できているような気がしている。しかし、その感覚が本物かどうか、自信がない部分も正直ある。
ライブを通じて彼女たちを応援する気持ちは確かに強まったが、応援すればするほど、「最初から応援していたかった」という思いも出てくる。とはいえ、迷いや不安を抱えながらも、日向坂46と共に進んでいきたいという気持ちは変わらない。
ここが私の「走り出す瞬間」であるかどうかはまだわからないが、少なくとも「走り出せた(気がする)瞬間」であることは間違いない。