信仰としての憲法9条
・2010年ネット上に公開した文章の転載
多くの宗教においては「何々をしてはいけない」「何々をしなければいけない」といった戒律や規律があるだろう。
だが、ある宗教を信仰している人で、戒律や規律を厳格に守っている人は少数だろう。
(人殺しを禁止している宗教の熱心な信者であることを公言しているある国の政治指導者などは、戦争という形で教えを破っていながら、自らの信仰には少しも疑問を抱いていないようにすらみえる。もっとも、内面では信仰と自らの行為との矛盾に悩んでいるのかもしれないが。)
規律をきちんと守れ、守れないのなら信仰を捨てろと言われても、多くの信仰者は規律を厳格に守ることもできない、かといって信仰を放棄することもできない、というのが実情だろう。
憲法9条に信仰心のようなものをもっている戦後の日本人にとっても、憲法9条と自衛隊の問題をめぐってこれと同じような葛藤が生じてきたといえる。
憲法9条を維持するのなら自衛隊を廃棄しろ(規律を厳密に守れ)、自衛隊が必要だと思うのなら憲法9条を改正しろ(信仰を放棄しろ)と言われても、規律を厳密に守ることもできない(自衛隊を不必要と思うこともできない)、かといって信仰を捨てることもできない(憲法9条改正に賛成することもできない)。
信仰における矛盾を戒律、規律の解釈の変更によって解消しようとするのと同様に、憲法9条擁護者は、前述した矛盾を憲法解釈の変更によって解決しようとしたといえる。
だが、憲法9条に信仰心のようなものをもっていない人たちからすれば、憲法を信仰の対象にすることをおかしいと感じるだろう。
一方、9条信仰者からすれば、9条改正論者は不信心者、冒涜者にみえるのだろう(天皇信仰者が、天皇制廃止論者を不信心者、冒涜者とみなすのと似たような構図になっているといえる)。
少なからぬ日本人が憲法9条に信仰心のようなものをもつようになったのには、歴史的な背景、事情があるのだから、その点を無視して憲法を信仰の対象にすることを批判してもあまり意味はないだろう。
ただ、9条への信仰心は戦争の経験、記憶がもとになっているものだから、戦後五十年以上たって戦争が過去の出来事となるにしたがって、信仰心をもつ人が減少していくのは自然なことだろう。
また、国際情勢が緊迫してくれば、危機的状況を軍事力の行使によって解決しようと考える人が増えてくるから、9条の理想主義はますますその支持を失っていくだろう。
私自身は、憲法9条の理念そのものは否定すべきものではないのだから、これを放棄せずにすむのなら残しておいた方がいいとは思う。
だが憲法9条が非現実的なスローガン、お題目にすぎなければいずれは改正されてしまうだろう。
憲法9条擁護者がやるべきことは、その条文を改正されないように守ることではなく、9条の理念を現実の政策に活かす道を模索することだろう。
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