進歩的近代主義と選択的近代主義
近代主義を「進歩的近代主義」と「選択的近代主義」、2つのものにわけたいと思う。
「進歩的近代主義」では、非近代的な社会から近代的な社会への移行を歴史の進歩と考える。
この立場では、近代化されていない国や地域を遅れたもの、劣ったものとみなし、あまつさえ近代化されていない国を近代化させることを口実として支配、征服することを、正しいことだとすら考える。
一方、「選択的近代主義」では、社会を近代化させるかどうかは、そこに住む人たちが自分たちの意志で決めるべき問題であると考える。
非近代的な社会は、近代的な社会より遅れたもの、劣ったものではなく、そこに住む人々がどちらの社会をより望ましいものと考えているかのちがいだと考える。
(この場合、非近代的な社会に、近代的な価値観からすれば残酷な風習が残っているとき、国際社会はそれにどう対応するべきかという問題が生じる。非近代的な文化を尊重すれば残酷な風習が温存され、強制的に廃止させようとすれば、近代的な価値観を普遍的なものだと認めることになる。言論行為を通じて、残酷にみえる風習を自発的にあらためるよう説得するというのが賢明な対応であるのかもしれない。)
ただ、人々が自由な行為をした結果、自然な形で非近代的な社会から近代的な社会へと移行した場合、これを作為的に非近代的なものへと戻すことは難しい。
「選択的近代主義」が問題となるのは、近代化していない社会を作為的に近代化させようとする場合、これに賛成するか反対するかをめぐってであろう。
社会のあり方につよい影響力をもつ人たち(権力者、上層階層の人間、宗教家など)や、国民の大多数が近代化への移行を望まない社会。
そのような社会に生きる近代主義者は、孤立せざるをえないだろう。
近代化を歴史の必然とみなし、近代化を否定する人たちを反動勢力とみなすことによって、自己の立場を正当化せざるをえないのかもしれない。
「選択的近代主義」の立場をとれるのは、ある程度近代化された社会に生きる近代主義者だけといえる。
非近代的な社会に生きる近代主義者にとっては、社会を近代化させるということは自身のアイデンティティにかかわる切実な問題であり、これをある意味客観的、冷静に考えることはできないのであろう。
これは、日本の政治的近代化をめざす人たちにとっても同じことがいえる。
日本は、経済的には充分近代化したといえるだろうが、政治的には半分近代化したにすぎないだろう。
日本の政治は「擬似立憲国家」「半分民主主義」のようなもので、非近代的な要素がまだ根強く残っている。
政治家や国民の多くがこのような状態をよしとしているのだから、政治的近代化を望んでいる人たちは社会で孤立せざるをえない。
制度や法は、権力を掌握しその力によって近代的なものを作り出すことができる。
だが、人々の政治意識や価値観を近代的なものにかえるというのは作為的にはできないことである。
人々の意識や価値観が、長い時間をかけて徐々に近代的なものにかわっていくのを待っているしかないのだろう。
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