理想の社会について考える

・2010年、ネット上に公開した文章の転載

理想の社会、といってもすべての人々が理想的だと思うような社会はありえないだろう。
人の価値観は多様であり、何が善いことで何が悪いことなのかについての絶対的な基準はない。
また、何に生きがいや喜びを感じるか、どのようなことに幸福を感じ、逆に何が不幸の原因となるかは人それぞれである。
ある人にとって理想と思える社会が、別の人間にとっては生きがいの感じられない社会であることもあるだろう。
理想の社会をつくろうなどという運動は、その理想を共有しない人にとっては迷惑なものにすぎないだろう。
だから、これから述べる理想の社会とは、私自身がどのような社会を良いものだと考えているかという、個人的な価値観の表明にすぎない。
 
 

○貧困と暴力の恐怖のない社会


理想の社会という言葉で真っ先に思い浮かべるイメージは、「貧困と暴力による恐怖」のない社会だろう。
ユートピアというと、争いも飢えもなく人々がのどかに暮らしている牧歌的な風景を思い描く。
ただ、貧困や暴力の恐怖がなくなればそれでいいのかという反論も当然あるだろう。
貧困がなくなっても、管理された自由のない社会で、ただ飢えと暴力の恐怖からのみ解放されているのなら、多くの人は不幸を感じるだろう。
だから、貧困と暴力の恐怖のない状態は、理想の社会を考える際の必要最小限の条件にすぎないのだろう。
(ただ、その必要最小限の条件をみたすことすら人間には不可能だろう。
また、貧困と暴力の恐怖のない社会が実現した場合、そのことがある人たちにとっての不幸の原因となることすらあるだろう。)

理想主義者の中には、貧困と暴力の恐怖のない社会をつくりだせればそれでいいと考えている人たちと、それだけではだめで、それ以上の高い目標をめざさなければならないと考えている人たちがいる。
ただ、より高い目標の内容は個人の価値観によってことなるために、多くの人の共感はえられないことが多い。

貧富の差のない社会を理想と考える人も多いが、これは他人より多く富をえたいと考えている人たちの価値観や生き方を否定することにつながる。
多くの人がもっている欲望を否定することによって成り立つ理想の社会は、実現不可能であるし、そのような社会を無理につくりだそうとすれば、それは人間の自由を否定した恐怖政治・専制政治になってしまう。
かといって人間の自由や欲望を無制限に認めてしまえば、「万人の万人に対する闘争状態」に陥ったり、自由な経済競争により多くの貧困者が生じることになる。
人間の欲望をすべて否定することもできず、かといって人間の欲望や自由をすべて肯定することもできない。
どのような欲望や自由は否定・禁止してはいけないのか、逆に否定・禁止した方がいいのか、一つ一つ検討していく必要があるだろう。
 
 

○貧困の撲滅


貧困の撲滅に関しては、私がみたところ2つの考え方がある。
1つは、貧困の撲滅・経済的不平等の是正を目的として人間の自由な経済活動を規制し、計画的にその目的を達成しようとする社会主義的な方法。
もう1つは、人間の自由な経済活動(資本主義経済)を前提としながら、自由な経済競争の結果生じた貧困を政治権力による富の再配分によって解消しようとする社会民主主義的あるいは福祉国家的な方法。

私自身が考えるのは、まず自由な経済競争を前提とする前に、貧困の生じない制度・システムを作為的につくりだし、その制度・システムの上で自由な経済競争を行うというものである。
富に執着せず、人並みに暮らせればいいと考える人は、この制度・システムの上で普通に生活していけばいい。
一方、富の獲得に生きがいを求める人は、この制度・システムの中で認められた基準・法に従って、個人の欲望や願望を追求すればいい。
ただ、個人の欲望や願望を追求する自由な行為が他者の生活をおびやかす場合には、その行為に一定の制限を加える。
こうすることによって人間の欲望と倫理、自由と規制のバランスを保った「最大多数の最大幸福」が実現しやすい社会になるのではないだろうか。
(ただし、私が不勉強であるだけで、ここで述べたような社会思想・社会理論は既に存在しているのかもしれない。それに、貧困の生じない制度・システムを作為的につくりだす方法は、社会主義的な方法しかないのかもしれないが。)
 
 

○暴力の恐怖からの解放


暴力は、人間の本性ともいうべき性質からおこるものだから、人間が別の種へと進化でもしないかぎり、人間の社会から暴力がなくなることはないだろう。
だが、人間は暴力を嫌悪し否定する理性・倫理感なども同時にもっているから、人間社会から暴力をなくそうとする動きも当然おこるし、またそう努力するべきだろう。

そして人間の社会から暴力の恐怖をなくす方法は、国内レベルでは近代の民主主義思想・人権思想に基づいた法治国家を、その理念通りに運営していくしかないだろう。
権力をもった者は、その力を私用・濫用しやすいから、公権力機関が多くの人々を抑圧することもままあるだろう。
その際には、公権力の保持する暴力装置である警察が、暴力団のような存在となってしまうだろう。
ただ、公権力による暴力装置を廃止したとしても、人々が自分の身を自分で守らなければならなくなるだけだから、力のない者は暴力の恐怖にさらされ続けることになるだろう。
公権力・警察が暴走しないよう、法治国家がその本来の理念通りに機能しているかを、人々が絶えずチェックしていくしかないだろう。
 
 

○戦争


国際レベルでの暴力の恐怖の代表は戦争であろう。
そして人間の社会から暴力をなくすことが困難(というよりも不可能)であるように、戦争のない社会をつくることも残念ではあるが不可能だろう。
近代的な民主主義国家では、法による支配が確立し、不当な暴力・不正な暴力を抑制する制度が整備されている。
だが、国際社会は法による支配が確立されておらず、近代的な国民国家(民主主義国家)成立以前と同様の、力による支配が主流となっている社会(封建社会、戦国社会)といえるだろう。

戦争そのものを違法とする国際法を制定し、違法行為を制裁するシステムが実現できたなら、不当な戦争・不正な戦争が抑制されるかもしれない。
ただし、一国レベルでは民主主義的な法治国家を実現できても、国際レベルでそのような制度を実現するのは不可能かもしれない。
近代的な民主主義国家も、武力闘争の結果、暴力装置を公権力の下に一元化できた時に法による支配が確立できたといえる。
平和的な方法で国際法による秩序が確立できない時は、現在のような状況が続くか、それとも国際法による支配体制を確立するために武力闘争(戦争)が生じるというパラドックスに陥るしかなくなるだろう。

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