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ギニア湾のほとりで
あなたにとっての「海」とはなんだろうか。
今日、6月8日はWorld Oceans Day(世界海洋デー)だ。
「世界の海は繋がっているから、国を超えてみんなで海のことを考えよう」と1992年のリオサミットでカナダによって提案された。
海のことを考えるにはもってこいの日だ。ある「海」のエピソードを思い出したのでここに綴っておこう。
2019年春。私は西アフリカのガーナにいた。
現地のNGOでバスケットボールを教えるためだ。
なんでアフリカかって?好きだからだ。それ以外の理由はない。いつからだろうか。心の奥にずっと眠っていた何かが、アフリカを知れば知るほど大きくなっていくのだ。
そんな憧れの地に私は居た。
ある日、スイスから来たソーシャルワーカーの子と、台湾から来た子3人で週末旅行に出かけた。Akwidaaというケープコーストよりももっと東にある海沿いの町で、アクラから6時間ほどだっただろうか。
お昼に出発しようとチケットを買おうとするも、なんと出発は2時過ぎだと言われた。私たち3人は、2時間暇を潰さなくてはいけない。タイミングよく私のSIMカードが切れたため、お昼を食べるついでにそれも手に入れた。
2時間後、バスに乗り目的の場所へ向かった。
バスに乗っているオブロニ(非黒人)は私たちだけだ。
トゥイ語かガ語かまたはそれ以外の現地語かは全く見当もつかなかったが、添乗員らしき人が話し始めた。
その後、バスの旅の安全を祈り、ガーナの映画が始まった。みんな夢中だ。長いこと見ていると、彼らの笑いのツボがだんだんと分かってきた。
ガーナ人らしいふくよかな女性が、男性を叩いたり蹴ったりしている時に彼らは必ず笑っていた。
私は、どこが面白いのか、全くもって理解できなかった。
この謎は、いまだに解決していない。
5時間ぐらいしただろうか、そんな風にしてバスに揺られて気が付けば日は沈んでいた。そろそろ着くはずだが、真っ暗すぎて今どこにいるのかも検討が付かない。日本のように次の停車地の表示もアナウンスもない。オブロニにとっては難易度マックスだ。
そんな中、隣に座っていた現地の心優しい人がどこで降りればいいか教えてくれた。
「ここだ!!」と言われて急いで降りるも、そこはただの道だった。本当に何もない。街灯なんかほぼない。
民家から漏れるか弱い光を頼って、ただただ彼女たちの後を着いていった。
途中、ある女性がタクシーが集まるところまで案内してくれ、タクシーの値段もぼったくられないように交渉までしてくれた。心優しい、素敵な方だった。
タクシーをつかまえて安心したのもつかの間。この運転手は、暗闇の中道なき道をとばすとばす。どうか事故りませんようにと願い、どれぐらいのスピードかとメーターをのぞき込むも、メーターは0を指している。よくあることだ。
窓から入る風は気持ちよく、星は奇麗だった。
30分後やっと目的のホテルに着いた。光は、足元を照らす誘導灯のみで周りの景色は暗闇に包まれていた。
そんな中、私は恐怖を感じた。
得体のしれない、暗闇の中から聞こえる「ゴォーー」という音が、私たちからそう遠くはないであろうところからしている。
私は、ビーチにあるホテルに来ていることを完全に忘れていたのだ。
その暗闇から私たちを襲ってくる恐怖の音の正体は、「波」だった。それにしても、穏やかな瀬戸内海を眺めて18年間生きてきた私にとっては、正体が分かった後も脅えていた。
眠たくなるまで、ビーチでひとりその恐怖の音に耳を傾けていた。
人間は可笑しい。恐怖を感じるものに対して長い時間触れていると、だんだんと恐怖心は消えていく。それが、本当に危険なものだとしても。
午前零時を手前に、部屋へ戻った。
翌朝も、早起くに目を覚まし恐怖の音のもとへ出かけた。
西の方から太陽が昇っていた。
そこには、昨夜私たちを襲った恐怖の音からは想像もできないほど奇麗な薄い青い世界が広がっていた。
昨日私たちが居た場所とは違うところに来たのでは、そう思ってしまうほどだった。
朝食のフレンチトーストと熱々の紅茶を口に含みながら、底に果てしなく積もった砂を巻き上げる波を永遠と眺めていた。
波が来て引き下がり、次の波が来る間のほんの一瞬の静寂。
私の身長ほどあるであろう波。
小さい子供を背負い、頭の上に何かが入ったバケツを乗せ砂浜を歩く働く女性たち。
全てが合わさって、ここでしか見られない景色に私は時間を忘れて思い耽ていた。
西アフリカの海も私を脅えさせる。
あまりにも大きく、広く、偉大すぎる故に。
それと同時に私の心をも癒してくれる。
恐怖と癒しを同時に与える。そんなこと人間には不可能だ。
”海を見るといつも自分がちっぽけに感じる。なんて世界は広いんだ、と。”
私にとっての「海」とは、そんなところだろう。