見出し画像

アルフォンソ・ソリアーノという男

割引あり

1976年、ドミニカ共和国
サン・ペドロ・デ・マコリス州に生まれた
ソリアーノは、7歳の時に地元の野球チームに
入団すると、1994年、MLB球団の施策に習い
自軍の1軍プレーヤーを発掘する目的で
設立された広島カープアカデミーとの
親善試合で3打数2安打と活躍した事から
同じ村の出身でコーチをしていた
リナーレスにスカウトされました。

「先輩からアカデミーの厳しさは
想像を超えると聞いていたし
最初の1週間でやめようと思っていたんだけど
家族から、まだ若いんだから
一生懸命やりなさいと言われてね。
でも続けたおかげで1か月後には
契約してもらえたし、
あの時の厳しい練習が僕を支えてくれたね」と
振り返った身体能力の高い若者は
ドミニカのサマーリーグで首位打者になると
ダイヤの原石を掘り当てた球団関係者は
日本に連れて帰る事を決断、
身長185センチ、体重88キロの助っ人は
海を渡って来たのです。

「右ハンドルの車を初めて見て
驚いたね。それにどうしても食べたかった
アイスクリームが500円もしたんだ。
高くて100円のやつばかり食べてたよ」と
カルチャーショックを受けた
来日1年目は荒っぽさが目立った事から
2軍での調整を余儀なくされましたが
サードやショートを守りながら
57試合に出場、打率2割1分4厘、13打点の
成績を残して1997年、1軍に昇格しました。

広島カープの三省寮で黒田博樹と
同じ釜の飯を食べていた背番号74は
「内野を守っている時が人生で一番疲れたよ。
手の震えが止まらなくて誰も打ってくるなって
願ってたんだ。エラーするのが分かって
いたからね」と守備に不安を感じながらも
8月5日、一軍デビューを果たします。

ナゴヤドームの中日戦、7番セカンドで
先発出場すると、8月10日の阪神戦で
初安打を放ちましたが最終的に9試合の出場で
17打数2安打、打率1割1分8厘に終わった
助っ人に対して広島カープは
年棒450万円で契約の更新を打診しました。

しかしソリアーノの代理人、団野村氏は
1800万円を希望して交渉は難航、
年俸調停の申し立てを行うも
球団の提示額が妥当という裁定が
下った事から、これを不服とした助っ人は
任意引退選手となり退団したのです。

「カープに恨みなどないよ。僕に初めて
プロでプレーする機会を与えてくれた
チームだから感謝しているんだ」と
ドミニカに帰国する事になった助っ人は
母国で野球を続けていると
そのプレーを見たニューヨーク・ヤンキースが
素質を見抜いて契約を打診、
保有権を有している広島カープに
移籍金3億1千万円を支払う条件で譲渡を
申し出ました。

22歳の若者の高い潜在能力を買っていた
広島でしたが、このオファーを受け入れると
ヤンキースの一員となったソリアーノは1999年、
若手有望株が一同に会する
オールスター・フューチャーズ・ゲームで
2本塁打をかっ飛ばしてMVPを獲得、
9月14日のブルージェイズ戦に
ダリル・ストロベリーの代走として
メジャーデビューを飾ったのです。

広島時代、足が遅い事から
ロバと呼ばれていたのが嘘のように
2Aで24盗塁を記録していた強打者は
初安打がサヨナラホームランという
派手なスタートを切りましたが
NPB時代から不安視されていた守備の荒さから
レギュラー定着は難しいと思われました。

ところが2001年、ヤンキースの
正二塁手チャック・ノブロックが故障した事から
守備には眼を瞑ってでも
ソリアーノを使わざる得ない状況になると
打率2割6分8厘、18本塁打、73打点に
リーグ3位の43盗塁と素晴らしい働きを見せたのです。

ここから先は

1,864字

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!