【イチロー】日本人はもちろん世界中の野球ファンでその名を知らない人はいない超スーパースターは全ての常識や屈辱を己の信念と努力だけで跳ね返し続けた史上最高の安打製造機
おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、イチローさんを取り上げていきます。
https://www.youtube.com/watch?v=DKuciKZ6KvM&t=12s
1973年、愛知県の一般家庭に次男として
生まれたイチローは
小学生の頃から、父親とバッティングセンターに
通うと
100キロの球速では満足できなくなり、
特注スプリングに交換してもらって
練習していました。
マシンが相手とはいえ、ボール球だと思ったら
決して手を出すなと指示された事で
選球眼を磨いたイチローは
甲子園出場を目指して野球の名門校である
愛工大名電に進学、1年からレギュラーを獲得すると
2年時には稲葉率いる中京高校を下して
甲子園出場を果たします。
高校の通算打率は5割1厘を数え、
3年時に出場した
地方大会に至っては打率7割を超えていた事から
監督に宇宙人と呼ばれていた天才は
通学中の交通事故に遭うまでは投手としても
その名が挙がるほどでしたが、
大学進学を勧める父からプロ入りは反対されました。
しかし、もっとレベルの高い野球がしたいと地元の
中日ドラゴンズ入団を夢見ていたイチローは
プロ入りを志願しましたが
左打ちの外野手は不要というチーム事情から
ドラゴンズに指名される事はなく
ドラフト4位でオリックスに入団したのです。
1年目から打率3割6分6厘でウエスタン・リーグの
首位打者を獲得したものの、振り子打法を
否定していた
土井監督ら1軍の首脳陣と意見が合わなかった事から
レギュラー定着とはならず、
2軍で振り子打法に磨きをかけていた1994年、
新たな指揮官となった仰木監督に、
その類稀なる打撃センスを見抜かれると
即座に一軍昇格、登録名も鈴木一朗からイチローに
変更しました。
すぐに不動のトップバッターとして
69試合連続出塁に210安打、
打率3割8分5厘で首位打者を獲得するなど
打撃タイトルを総なめした若者は
打者として日本プロ野球史上最年少の
シーズンMVPにも輝きます。
翌1995年は過去に前例のない打撃タイトル独占という
無双状態でチームは悲願のリーグ優勝を成し遂げると
その後も7年連続首位打者に5年連続最多安打など
向かうところ敵なしとなり、ロッテにいたフランコは
「イチローは誰が見ても最高の打者で
野球のスペシャリスト。
メジャーでも良い成績を残すだろう」
と将来の活躍を予言しました。
イチロー自身、
「210本打った頃、アメリカには257本打った
ジョージ・シスラーという人がいる、って嫌味みたいに
言われましたね。年俸800万円の選手が210本ヒットを
打ったのだから「おめでとう」だけで良いのにって
思いましたけど、その時、将来はそこを目指そうって
決めました」とメジャー挑戦のキッカケを
語っています。
2000年11月、日本人初のポスティングシステムにより
シアトル・マリナーズが1300万ドルで交渉権を獲得、
年俸は3年総額1400万ドルで日本人野手初の
メジャーリーガーとなったイチローは
「7年続けて首位打者取って何が不満なの?
出来ないからやめておけって、散々言われましたけど
誰も行っていないのだから分からないと、
多くの批判に屈することは無かったですね。
野球の名門校に進む時も、そんな細い体で
無理だと言われたし、プロに入る時もそうでした。
大人の思惑には関係なく、常に自分で
決断してきましたから」と海を渡りました。
降り立ったアメリカでも身長180センチ、
体重72キロのスリムな日本人野手は
通用するのかと懐疑的な意見が多く
ランディ・ジョンソンの背番号51を
背負う事に関して
「ランディの功績を台無しにするな」と
ファンから陰口をたたかれたうえ、
道具の多いイチローが2つのロッカーを
与えられていた事を知った
チームメイトは
「実績もないやつに何故だ」と激怒したそうです。
ここから先は
この記事が参加している募集
よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!