藤川球児という男
今回は、藤川球児(ふじかわ きゅうじ)さんを取り上げていきます。
父が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれた事から
球児と名付けられた少年は、平成の大エースこと
読売ジャイアンツの斎藤雅樹にあこがれて高知県の
少年野球チームに入り、野球を始めました。
最初はショートを守っていましたが、ほどなくして
投手に転向、一気に頭角を現すと
進学した高知商業2年時に兄の順一とともに甲子園出場を果たし、
1998年のドラフト会議で、阪神タイガースから1位指名を
受け入団、プロ入りを知った同じ小中学校出身の広末涼子さんから
自分の事のようにうれしく思っていますと
激励の手紙も受け取りました。
2軍で体力強化に励んだのち、2002年から星野監督に先発投手として
積極的に起用され、9月11日のヤクルト戦。
8イニングを1失点に抑えてプロ初勝利を挙げました。
その後、肩の故障などにも苦しみましたが
三冠王に輝いた野村克也氏が、自分が見た中で一番速かったと
証言している山口高志(やまぐち たかし)二軍投手コーチとともに
フォーム改造に着手します。
同じ速球派投手だった山口コーチは、
ボールを叩き付ける感覚で上から投げ下ろすように、と
アドバイス、また高知商業の大先輩でもある中西一軍投手コーチが
先発より中継ぎのほうが向いていると、転向させた事も功を奏して
一軍に定着すると、背番号を22に変更して臨んだ2005年。
ジェフ・ウィリアムス、久保田智之(くぼた ともゆき)とともに勝利の方程式
「JFK」を形成し、17試合連続ホールドを記録するなど覚醒、
岡田さん以上の監督がいるのかわからない。と答えるほど
尊敬していた岡田監督の下で投げまくり、
リーグ優勝を成し遂げたのでした。
翌2006年も前年同様に中継ぎでスタートしましたが
6月に抑えの久保田が怪我で離脱したことに伴い、抑えに定着すると
38試合連続無失点や47イニング連続無失点など
クローザーとしても開花して迎えたオールスターゲーム。
アレックス・カブレラ、小笠原道大(おがさわら みちひろ)、
清原和博といった球界の強打者たちを相手に
全球ストレート勝負を予告、
手元でホップする剛速球を打ち返そうと全員が
フルスイングで答えるゾクゾクする勝負は
すべて空振り三振という結果に。
対戦した清原は「参った、火の玉や」と白旗を上げたのでした。
2007年は開幕から抑えとして好投を続け、最終戦で
日本タイ記録となる46セーブ目を挙げてセーブ王を獲得。
その栄冠を置き土産に
ポスティングシステムによるメジャー挑戦を
志願しますが、チーム不動のストッパーを手放す事は出来ないと
球団が首を縦に振る事はありませんでした。
2008年、2009年も安定したピッチングを見せて
3年連続20セーブを達成。
2010年も開幕から16試合連続無失点と絶好調、
6年連続のオールスターゲームにも選出され、
9月5日の広島戦では通算150セーブを達成すると
翌2011年も前半戦は26試合に登板して防御率0.76、
最終的に41セーブを挙げて二度目のセーブ王を獲得。
日本に敵なしとなった藤川は、
毎年のように球団にメジャー志願するほど
憧れ続けたステージにいよいよ挑戦するチャンスを
手にしました。
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