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オートフェーダー

 レコーディングエンジニアのMさんの話。
 あるアイドル系のボーカリストのミキシングを請け負っていたときのことだ。レコーデングと仮ミックスは前日に済んでいて、その日は本ミックスを仕上げる予定となっていた。Mさんの他にはボーカリスト――仮にサユリさんとしておく――が見学ということで来ている。
 まずは前日の仮ミックスを聴いてみようとプレイバックする。突然、サユリさんが「キャ」っと声を上げた。
「どうした?」
「フェーダーが勝手に動いてる」
 フェーダーとは、各トラックの音量を調整するために縦にスライドするパーツである。
「ああ、今時の卓はフェーダー操作をプログラミングして再現できるんだよ。知らなかった?」
「あ、知りませんでした。すみません」とサユリさんは恥ずかしそうに答える。
 それからしばらくはMさんの一人作業で各トラックのエフェクト処理やら何やらが繰り返された。
 最終段階に入り、途中からスタジオ入りしたプロデューサー立ち会いでチェックということになった。曲の頭からプレイバックする。途中でプロデューサーがうなずいたり眉を寄せたりしている。曲が終わり、いくつかのフェーダーがスーッと下がっていく。
 と、それと入れ替わるように右端のトラックのフェーダーがスーッと上がり始めた。そして一瞬をおいてモニタースピーカーから重苦しい男の声が聴こえた。
 Mさんは首を傾げた。PCの画面を覗き込むと、使っていないはずのトラックに音声データが置かれてあった。「ん?」と思いながらその音声を再生する。
「ダメだな」
 先ほどの男の声がモニタースピーカーから聴こえた。。
「なんだこれ⁉︎ 誰だ、こんなイタズラしたの」
 イタズラしようにもMさん以外に昨日機材を触った者はいないはずだ。夜中に誰かが侵入したのだろうか。不思議でしようがなかったが原因を解明している暇はなかった。その音声を消去して先へ進むことにした。
 プロデューサーの意見を取り入れて僅かなレベル調整をし、再びプレイバック。曲が終わってフェーダーが下がっていく。
 と、再び、右端のトラックのフェーダーが上がっていく。そして男の声。
「惜しいな」
「何なんだよ!」
 MさんがPCの画面を見ると先ほど消したはずの箇所にまた音声データがあった。プロデューサーとサユリさんが顔を見合わせる。
Mさんは「厭だなあ」と言いながらデータを消去しトラックをミュートする。更に本来のトラックの気になるところを調整する。
 しかし――
 異常なデータの発生は何度か繰り返されたという。
 5回ほどの調整の後だったろうか。今度こそはと思いながらプレイバックする。調整箇所を聴きながらMさんとプロデューサーが頷く。曲が終わりフェーダーが下がる。Mさんは右端のフェーダーを注視する。
(動くな、動くな)
 しかし、その願い虚しく、フェーダーがスーッと上がっていく。思わずMさんはテーブルをドンと叩いた。その音に反応したわけではないのだろうが、フェーダーがスッと止まり、一瞬の間を置いて男の声が聴こえた。
「OK!」

 結局そのミックスが最終となり、マスタリングからリリースまで順調に進んだというが、その楽曲がどれくらい売れたかは定かではない。
 Mさんは最終的には例のトラックをミュートしつつも、データはそのまま残しているという。

―― 了 ――

(この話はフィクションかもしれません)

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