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余白があるから人は考える

9月13日のNHK『あさイチ』の特選エンタにゲストとして出演された絵本作家・なかえよしをさんの語られた言葉がとても印象に残った。

なかえさんは、誕生50周年を迎えた、40作を超えるロングセラー絵本『ねずみくんの絵本シリーズ』の作者だ。
赤いチョッキがトレードマークのねずみくん。
絵本の中身は詳しくないが、表紙の独特の愛らしいねずみくんは、よく目にしてきて馴染み深い。

ねずみくんの絵本の表紙はどれも、表紙下のちっちゃなねずみくんと、上の方の赤いタイトル文字との間に、不自然なほどの広さの真っ白な空白の部分がある。番組でこの空白について尋ねられると、

「この余白が大切。シンプルこそ強い。余白があるから人は考える」

と、答えられていた。そして、
「今は情報が多過ぎて空白がなく、いろいろな色で埋め尽くされている。考えさせないようになっている」、と。

確かに最近の自分の脳内は、さまざまなアプリのアイコンで埋め尽くされたスマホのホーム画面のように、ぐちゃぐちゃしていて、散らかっていて、押し寄せる情報と、誰かの思惑に流されて漂流しっぱなしだと気付かされる。
アップアップ流されて、自力で泳ぐことを放棄して、誰かの借り物の意見にいいね!することで意見表明したと錯覚している。

なかえさんの指摘とは少し観点がズレるが、元・NHKラジオ英会話の講師で、大尊敬していた東後勝明先生の講演会にもうずいぶん前に出席した際、先生が嘆いていらした言葉を思い出した。

「日本は至れり尽くせり、うるさ過ぎる!駅で『電車が入ります』などのアナウンスも余計だ!駅に電車が入ってくるのは当たり前じゃないか。ヘリコプターがやってくるはずないのだから!」

みたいな内容の苦言を言われて会場が笑いに包まれたシーンを覚えている。
先生は、日本社会の必要以上に与えられ過ぎる過剰なサービスにより
「だから日本人は自分の頭で考えられないようになった」
と非難されていた。

東後先生の指摘を本当の意味で実感したのは、その後、海外で一人行動した際だった。日本にいると当たり前に思える駅のアナウンスや電車、新幹線、バス内での「次は、○○駅・○○町、ナンタラ~。。。」のお知らせが、海外に行くと実はとんでもなく親切だったことを思い知った。

かつて、マイケル・ジョーダンとNBAにハマって、引退前にどうしても彼のプレイを生観戦したくて訪れたBullsの本拠地、シカゴで、試合の合間に何回か利用した街の公共バスは、緊張と恐怖の連続だった。

何と車内のアナウンスは全く無し!(20年余り前の体験なので、もしかしたら今は状況が変わっているかも、ですが。。)
シーンと静かな車内にガタガタとバスの振動だけが響く。

降りる停留所は、予習にすべてがかかっている。たとえば、水族館を訪れたい時、最寄りの停留所の名前をしっかり把握して、乗車した停留所から幾つめにあるのかを記憶。
バスが停車するたびに、心の声でカウントする。

いっときも気が抜けない、張り詰めた冷や汗もののドキドキ感。
当時はもちろん、スマホで地図アプリ、みたいな魔法ツールがあるわけじゃなく、頼れるのは自分の記憶と感覚と手元のメモのみ。

さらに厄介だったのは、停留所が日本のそれらみたいに立派な造りではないことだった。表示らしい表示もなく、スーッと目印の棒切れが立っているだけの停留所もあって面食らった。(大都市、シカゴだというのに!)

体をこわばらせ目を見開いて、まるで戦闘態勢のようなバスでの行楽。
日本みたいに、居眠りしていても何となく耳に入ってくるアナウンスで降り損ねずに済むって、ここは極楽か!?、と海外を経験すると拝みたくなる。

でも、緊迫に満ちたあのバスのお出かけ、確かに頭はフル回転だったなぁ~、と今、思う。

乗る前の予習、あらゆる下調べ。
乗車後も車外への目配りと観察。クタクタになるくらい自分で考えて自分で判断して行動に移す。
失敗を糧に一度目より二度目のバスは緊張が和らいで、ほんの少し余裕が生まれて、ほんの少し要領が良くなる。

目的を果たせてホテルまで無事戻れた時の達成感は、時を経た今でも失われず自分の中に残っている。

余白が大切、と語られたなかえさんの言葉に、無音だったシカゴのバス内の風景が蘇ってきて、雑多な色に染まり過ぎている自分の日常を、真っ白はムリでも少しハケで削り落として空白を生み出したいな、と思った朝だった。

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