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生きて、いたくても――Nov#23

 屋上で揺蕩っていた僕の意識がはっきりして来ると、太陽も影も、星座の早見表を少しずらしたみたいに全体が傾いていた。慌てて時間を確認する。携帯の上部についているボタンを押すと、液晶が光って、一六時の手前だと教えてくれた。慌てて校庭へと向かう。
 文化祭の一般公開は一六時に終了だ。それからプログラムは閉会式、各所の片づけに充てられる二時間を経て、一八時に後夜祭へと移行する。
 ふわふわとした感触に身を横たえ過ぎて、どうやら眠ってしまったみたいだ。制服姿に戻った二人が屋上を出て行ったのは一四時くらいだから、二時間前後。僕はこの胸懐を昇華させたくて、少しだけ一人にして貰っていた――つもりだったのにうっかり寝てしまって、文化祭は呆気なく幕を閉じていた。ただ、それは逆に、やり遂げた証明でもある。
 急いだ割に揃っている生徒はまだ半数で、一息吐きながら、列に加わる。左前方、桂馬飛びの位置に、三上の姿があった。こちらに気づくと、親指から中指までの三本を立てた、不器用なフレミングの右手を作ってみせる。「スプリー・スリー」を暗示している事は明白だ。それが、成功を祝す特別な勲章に思えて、嬉しくなる。同じサインを返そうとしたところで、
「おっす、宮下。楽しかった?」
 後ろからいきなり両肩に手を置かれた。毛利だった。出席番号順だと、彼は僕の真後ろだ。
 これくらいは、毛利なら誰にでもする。彼の性格やつき合い方として、特に怪しまれるものじゃない。だけど僕にとっては、その一挙手一投足、肩が掴まれただけでも、恐怖心が反応してしまう。
 右手に立てた三本の指。僕は振り返る。
「うん、楽しかったよ」
「全然見なかったけど、お前居たの?」
「……毛利こそ、クラスの喫茶店、ちゃんと出たの?」
「ああ、初日の一番最初希望したんだ、さっさと終わらせといたよ」
 ざわめきが増える。気づくと、既に殆どの生徒が集まっている。毛利の手は離れた。
 やがて来客の誘導を終えた先生たちも合流し、予定通り閉会式が始まる。先鋒として壇上に立った校長は「予期せぬ事も……」なんて遠回しに、きっと他にあった諸々の事も含めて「クエスチョン」に触れた。聞いてみれば非難する様な内容ではなく、この場に於いては式と自らの任を無難に終わらせようとしていただけだった。
 近くから、会話が聞こえて来る。「そう言えば、これの犯人ってどうなったの?」この一帯にもまだ、証跡の小片が散在していた。
「いや、知らない。何もないんじゃない」
「そもそも誰なの? 検索してみたけど引っ掛からなかったし」
「え、うちの学校の奴でしょ。何か窓から幕とか垂らしてたじゃん」
 妥当な推察だ。「セヴンティーファイヴ・インヴィティーズ」の介入は一助になった反面、却って犯人を絞り込ませる結果になっている。不安はあるけれど、仕方ない。得たものに比べれば、適切な代償だ。
 いつの間にか、コンクリートの壁みたいに退屈な話は終わっていた。閉会式の後はそのままクラス毎に並んだ列へ各担任からの指示が飛んで、学校を文化祭と言う衣装から日常へと着替えさせる作業が始まる。
 僕は教室に戻って飾りつけやテイブルなどを片づけ、原状を回復する組に入る。出席番号順を半分に割った形だから、僕が敵視する相手は毛利だけが一緒になったけれど、特に興も乗らなかったのか、衆目があるからなのか、手出しはされなかった。
 教室を定型の風景に戻した後は、校庭で他クラスの幾つかのグループと一緒に、散々ばら撒いた紙吹雪やコップ、その他「クエスチョン」には無関係のごみを掃いて集めていた。とは言え大半は活動の残滓で、間違いなく例年以上の面倒を増やしてしまっていた。
 足元でうずくまる、踏み潰された「夕暮れ」や「夜」。
 計画の破片を拾い上げ、袋に入れる。
 中央に特設されたステイジなど、後夜祭の為に一部残したものを除いては校庭も大方元通りになって、名残になり掛かった西日がその表面に不思議な橙色を滑らせて行く。痕跡も熱気もすっかり拭い去られ、全てが記憶の中だけに綴じられた。
 次の作業として、また新しく、後夜祭に必要なものを並べて行く。賞品つきのビンゴ大会、優秀な企画を行ったクラスや部活に授与される賞の発表など、小さな催しは幾つか用意されているけれど、うちの後夜祭では何よりもバーベキュー大会が一番の目玉になっている。希望者は事前に申し込み用紙を一〇〇〇円と共に提出し、後日配布される引換券で、肉や玉葱、南瓜などが連なった大きめの串を三本と、缶ジュースを一つ貰える仕組みだ。近隣の学校では類例が少なく珍しいイヴェントで、大きな費用が掛からないと言うのも相俟って、文化祭全体そのものより楽しみにしている人も少なくない。
 この三年間で、後夜祭へは初めて参加する。義務である片づけの時間さえこなせば、帰宅は自由だ。途中で退席するのは勿論不参加の選択もあるし、バーベキューなしで居座ったっていい。「クエスチョン」を、余計な混乱を招かない、そして相手を探し当てる確度を向上させる為、関係者だけになった後夜祭に乗じて敢行、と言う案もあったけれど、撤退を余儀なくされるのも早そうだし、もしも対象が帰ってしまっては元も子もないと否決された。
 そして「クエスチョン」が後夜祭でないのなら、僕は今年も不参加の予定だった。だけど、成功を記念しての祝賀会やるよ、と偶見に誘われた。僕が眠っている時に着信したメッセイジだ。気づいたのは閉会式が終わった直後で、返信するのも教室で隙を窺っての事だったから、答えを送るのに大分時間が開いてしまっていたのに、驚くくらいの早さで次弾が届いた。サボっているとしか思えない。
 縦半分にカットされたドラム缶の断面に鉄網を取りつけた木炭コンロを、協力してグラウンドへと運び込む。木炭コンロと言うからには使用するのも木炭で、その為の火消し壺、着火用の小枝や木片などの薪なんかも取り揃えられている。結構本格的だ。それでもコンロの数や大きさには限度があるから、順番待ちも発生する。後夜祭に参加する生徒は大抵申し込んでいる筈だ。僕は急な参加だからバーベキューの券はないけれど、それでもやっぱり、楽しみだ。純粋に。この準備には毎年携わって来たけれど、作業をするにも心持ちが違う。
 炭は着火するまで時間が掛かるから、予めこの段階でやっておく。先生の指示の元、木炭同士の隙間を空けてコンロの中に並べ、上から薪を乗せて点火。後は頃合いを見計らいながら時折団扇なんかで風を送るくらいで、取り敢えずは一段落だ。
 指示された待ち合わせ場所は北門の周辺。本館と一館の間、コの字に濁点を打つ位置だ。各自の作業が終わり次第、荷物を持って集合する事になっていた。
 まだ少し、非日常につき合わされるグラウンド。見る間に暗転して行く景色の中で、消えて行く太陽から役目を受け渡された様に、網の下にある赤い色が目立ち始めた。
 そして空が、ゆっくりと上蓋を閉じて、
 夜は正統に訪れた。


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