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生きて、いたくても――Nov#21

 ――ドアーを閉めた。後はひたすら、階段を下りる。平生と違って流石に人通りはあるものの、気にせず駆け抜けた。誰かが振り返る。一斉に視線を浴びる。その毎に、これからする事への不安と期待は、天秤の両側に掛かる皿から溢れ出していた。どちらに傾くとか、そんな次元では最早ない。許容量を超えているのだ。屋上から四階、三階へ。体を勢いに委ねる。全て眩暈の様な風景が後方へ流れ飛んだ。
 更に半分降りた踊り場で、眼下にある二階廊下の窓の外に、紙の束が落ちて行くのを見た。二つの節で少し折れ曲がった、掌を二つ並べたのよりも少し大きい、やや薄い桃色の群れ。
 ――手紙だ。
 数十もある塊が、蝶の如く、またはグライダーの如く、舞い落ちる。
 あの手紙は、三上がこの計画の為に書いたものだ。そして彼女、いや、僕たち三人がここに居る以上、あの手紙をどこからか投げ落としたのは僕たち以外と言う事になる。
「三上、あれ」
「人に頼んだんです。大丈夫、私たちの正体とか、秘密は守られますから」
 そう言っている間にも階段を折り返して、軌跡の歪んだ不規則な流星雨に背を向ける。
 三上は、僕たちが買い出しに行っている間、手書きでメッセイジを用意していた。数は、七五通。その内二〇通程は、既に校舎の内外にある掲示板などの目につく様な所に、文化祭のポスター同様貼られている。ポスターも美術部が手掛けているから、そんな手紙を貼り出すのは意外と容易な作業だったそうだ。そして、残りの所在を僕は知らなかった。
「効果があるかは、分かりません。拾って読む人がどれだけ居るか、拾われるくらいの場所まで散らばってくれるか、そもそも先に貼り出しておいた方の手紙も、どれだけの人が見ているかも。ただの演出です」
 その文面は、「一つのクエスチョンが行われます」「スプリー・スリーがその計画を実現する場に列席して頂くべく歓迎します」「参加者の内の一人として、あなたはクエスチョンの一部分となるでしょう。同時に、あなたはそれを体験するでしょう」と言う、まさにアラン・カプロウが「ハプニング」の為に書いた手紙の改変だ。そこまでは通じないだろうけれど。
 一階に到達し、そのまま玄関に向かう。靴も予め屋上へ持ち込み、履き替えてあった。
「決めてるんだよね。一個目は、」偶見が、左手で持ったディスペンサーのボタンを中指で押す。右手に一つ目の「クエスチョン」が生み落とされる。「最初に会った人、って!」
 そして、校庭の砂を踏むと同時に、三人のグループから抜け出した偶見は標的へと駆け寄った。出口近くに居た一人の生徒、その胸辺りを目掛けて軽く投げ上げる。
 紙吹雪が舞った。
 ああ、
 始まった。
 攻撃的な意思がない事を示す為に、強い投げ方をしない、出来るだけコップ本体を対象に当てない、それはルールだった。一応の注意として、胸部より上の高さには投げない、と言う取り決めもある。塩が目に入るなどの事故を避けたかったからだ。不必要な問題を起こしてしまうのは、こちらにとっても本意じゃない。
 ただ、驚くだろう。派手さと雰囲気、紙吹雪と言う小道具はエンターテイメント性を意識しているけれど、唐突にそれを感じ取れと言っても無理な話だ。予想通り、全く突飛なシチュエイションに、対象の彼は呆気に取られた表情で、こちらを見返す。「……は?」
 でもそれは、僕たちにとって完璧なくらい期待に適った反応だった。僕も初弾を撃ち出し、同じ彼に追い打ちを掛ける。再度降り注ぐ色の粒。敵意がない事のアピールも兼ねて、親指と人差し指で丸を作ってみせる。顔を隠しているのもあって、気持ちが大胆になっていた。普段の僕なら、こんな陽気にサインを使ったりしない。
 二人の元へ戻ると、偶見がこちらに目配せをして片手を上げた。すぐに意を解して、ハイ・ファイヴを交わす。妙に嬉しかった。ただ「クエスチョン」の成功に対するものだけではなくて、彼女の手に触れた瞬間のどこか面映い感情も、昂揚と相俟って気分を浮かせていた。今ある躍然とした心地を、普段の僕は決して知らない。だからきっと、少なくとも一つ、僕は旧式の僕を脱却出来たのだ。
 固まる彼の姿を後目に、僕たちは木琴の音色の様な足取りで人混みに向かう。
「いやー、ナイス、宮下君。決まってたじゃん。吃驚してたねー」
「あれで、よかった、かな」
「ふふ、宮下君は少し、遠慮気味なくらいですけど。さあ――次、行きましょう」
 三上の言葉を体現して、「クエスチョン」は順々と行われた。対象は生徒に限らず、外部から訪れる人も含まれた。それは無作為的と言うより、それぞれの直感で選ばれていた。服がお洒落な人。洋楽が好きそうな人。或いはいい匂いの香水をつけていた人。その場その場で何かしらのアンテナに引っ掛かった人へと、「スプリー・スリー」は紙吹雪を浴びせて行く。
 僕も四つを投げ終わって「夜明け」が掌の上に降りて来ると、それをディスペンサーの上部から戻してリロードした。ただの後回しだけれど、必要でない時はそうやって、多少のタイミングを調節出来た。逆に必要な時は、「夜明け」が出るまで他の紙コップを飛ばしてリロードすればいい。「夜明け」だけは他と違って必ず四個置きに出て来る様、五の倍数でセットしてある。
 偶見はいつの間にか、ヘッドフォンをしていた。白銀色の機体からは、やや高く鋭い音だけが漏れ聞こえると言う程度で、このざわめきには掻き消されている。それでも体を揺らして歩く偶見の様子から、自分の世界を作り出せるだけの音量を設定している事は分かった。楽しげにリズムを取るその動作や歩き方は、彼女の不可思議な格好、それに「クエスチョン」に際しての姿勢にも、寧ろ必要なくらい相応しかった。
 あくまで陽気に。何かのイヴェントと言う雰囲気を壊さずに。
 屋台の近くに居る二人の男子生徒がこちらを指差して顔を見合わせたかと思うと、小走りに近づいて来るのが視界の端に映った。こんな姿でグラウンドを練り歩き、奇怪なクラッカーの真似事をやっているだけあって、注目されているみたいだ。軽音部の演奏を聴いている人、殊にステイジから後方に居る人たちの中には、こちらに気を取られていたり、この珍客に興味を持って寄りついて来る姿も見受けられた。心で謝っておく。
 そうして僕の意識が散漫になっている時、屋台の方から向かって来た二人が、

 その手に持った、無地のコップを僕たちに投げつける。

 屋台で買った飲料でも、入っているのだと思った。
 予想外の行動に身構える間もなく、
 紙吹雪の虹が架かる。
「……え?」
 三上と、同時に出た声だと思う。
 関係の逆転した「クエスチョン」。僕は……僕たちは、混乱していた。
 更に、集まって来た何人かの生徒も同様に真っ白なコップを放って、その中に溜め込んでいた色取り取りの花びらを、宙へ散らかし始める。
「え……っ、どう言う、事?」
 三上に顔を向けるが、彼女も首を振る。「だけど、もしかしたら……」
 僕たちの慌て振りを見かねた様に、偶見が指差す。僕たちが先刻まで居た本館。ずっと背にしていたから、全く気がつかなかった。
 三階廊下の窓で、大きな垂れ幕が揺れていた。
〈ただ今より一つのパフォーマンス、『クエスチョン』が行われます〉。
 手紙にも書いたあの一文が補足された上で大きく書かれ、隣に「クエスチョン『浄化作用入り紙コップの死、或いは新たなレゾンデートル』」とタイトルが、更にその左下の末尾には、やや控えめな文字で「主催『スプリー・スリー』」「後援団体『セヴンティーファイヴ・インヴィティーズ』」と列記して締め括られている。
 偶見が、ヘッドフォンの片耳をずらす。「よく知らないけど、あたしたちのサポーターみたいだよ」
「サポーター? 三上、誰かに話したの?」
「……美術部の子たちにだけ。ほら、最初にこの企画について話をしたの、美術室じゃないですか。それを聞かれてたみたいで、興味持っちゃって。私が美術室で作業したかったのもあるし、話した方が早そうだったので。でも、部員たちには概要を話をしただけで、他は全く関与してないんです」降り出した雨の、最初の一滴みたいに、三上が呟く。「私の知らない所で、こんな事、仕込んでたなんて……」
 話している間にも、偶見が顔に覚えのない生徒と紙吹雪を掛け合っていた。ここに参集した顔触れは皆、美術部員ではない。
 ――凄い事になるよ、絶対。
 あの時の言葉。偶見は、これを「先見」していたのか。
 垂れ下がる「セヴンティーファイヴ・インヴィティーズ」の文字。あの文言が本当だとすれば、僕たちとは別の所で用意された「七五人の招待客」が、この会場内に。
 僕の考えは裏切られなかった。時折姿を見せた後援会のメンバーは、その度に僕たちの視界を染め上げた。七五人と言う数字はにわかに信じられるものではなかったけれど、エンカウントする人数を重ねる毎に、真実味も比例して増した。
 彼たち「セヴンティーファイヴ・インヴィティーズ」の歓迎を受けたのもあるだろう、雑踏の中に於いて、この奇怪な三人に対する捉え方のニュアンスは和らいでいた。一風変わったお祭り集団の様な認識をされていたと思う。さっきの男子たちと同じく指を差して隣の人と何かを喋る人が居たり、僕たち……と言うよりは恐らく三上を見て泣き出した子供を、お母さんがあやしていたり。偶見が笑わせようとして、余計に泣かせていた。今の君は僕からしても結構不気味だ。
 進行する中で、許可の有無に関わらず写真を撮られたりもした。実際若い男の人に声を掛けられ、一度立ち止まって被写体を務めた時には、例外的に三人でコップを自分たちの上に高く投げ上げ、色のシャワーが舞い落ちる中での撮影になった。
 そうして続け様に「クエスチョン」を敢行し、僕が七個目、トップに乗せた「夜明け」を数えて八個目を手にした時――人混みの中でその顔を探し当てた。意識が一息に引き絞られて、そこに集中する。脈動が早くなっていた。
 持ったばかりの「夜」と次の九個目を再装填、早送りする。そして、一〇個目。ちぐはぐな一日の周期を終えて、規則正しい「夜明け」が再度、僕の手底に訪れる。
 偶見が気づいた。「居たの?」
「うん、あそこに」
 視線の先に居る角倉と川成を指し示す。他にも何人かを連れて、一団を成していた。すぐに僕は歩み寄って行く。偶見、そして三上も後を追って来る。
 軽快に、あくまで陽気に装って。
 それでもコップを握る右手には、どうしようもなく力が入って。
 掌に倣い、少し潰れた粗い形。
 向こうの一人が、僕たちを認めた。
 その集団の、中心に居る二人に向かって、
 歪な「夜明け」を、
 投げつける。

 その瞬間、周囲のざわめきが、掻き消えた。

 様々な色彩と体状で踊る紙片と、舞い散る桃色の花弁が、視界を埋めた。
見覚えのない形。僕たちが共同で切り出した紙吹雪の中にも、そして今日、実際に使った紙コップの中にも、その丸い矢羽型に整えられたものはなかった筈だ。
 ――桜。
 桜吹雪が、降り注ぐ。
 僕の復讐と、願いを乗せて、僕と同じ名前の花が、降り注ぐ。
 瞳孔の中をスロウ・モーションで動く世界の、音のない時間を切り裂いて、
 祝砲の様に、偶見が天高く、一つのコップを投げ上げる。
 その小さな花火が空で開いた時、確かに感じた。
 ああ、今、間違いなく、
 僕の目的は、果たされた。
 だけど、
「……ほら、宮下君」
 そこで立ち尽くす僕を、
「まだ、終わってない筈ですよ」
 密かなピースを忍ばせていた二人が、次の一章へと導く。

 滑稽な狐の面に隠して、誰にも知られず、僕は泣いた。


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