致命的再結晶(掌編/短編)

「きこえましたか」
 ひとひらが聞こえる。私を探していた。聞こえると、響く。ひとひら。触れられて、蘖を摘んだばかりに柔らかい。すると、真暗い私の洞が分かる。その洞はまた茫漠と深い泉で、初めのひとひらがふと温かく揺蕩い始める。ややあってから二つが訪いた。
「むつきひとひのひとやです。とのもはみなみゆきです」
 それは時を落下する真砂になって帰らず、靉靆として巻かれながら、掴まえたもののない白皙のひとひらだった。
「すぐに、なれます」
 寂寞を呷る。
「おねむりなさい」
 
     x x x
 
「聞こえましたか」
 明朗を私が宿し始めた。喉頸にある余熱り。頷く事が出来る。
「何かを、覚えていますか」
 私は否む。そうでしょう、と言った。「今まだあなたは、逆巻く命の半ばにあるのです」その人は滔々と語った。
 あなたは睦月一日から、再結晶をしているのです。と言うのもかつてあなたは人でした。けれど不幸せな簒奪のあった為に、それを取り戻し、甦りゆくのです。一つずつ捧げられ、日にけに、緩やかに。
 まず耳より来て、今は首でしょう。やがて、肌――まだ縛めが解かれぬだけで、あなたは元より人の形を得ています、耳が聞こえである様に、肌とは、感覚する事です――、手、声として口、腕、次いで目が開け、足、脳は記憶、その末に命たる心臓を以て、他多数の全ての自由が完了します。ゆえにあなたはまだ定めし、生きものとは呼ばれぬでしょう。
 首を弾ませてみたり、右左と転がしてみると、頭骨の下でざりざりとひさめく音の配列。枕して、星の火花を聞くかに思える。
「変わらず、外の面は皆深雪です。窓辺に幾つかの鳥がありました。遼遠として望む峰の連なりはここより隔てられて影絵となり、紺青をしています」その人は傍らに居た。「ここは大地から高きにあって、二人をぐるりと真白く囲み、動かぬ花の淡いのが鏤められています」
 せめて指が、手の先が戻り来れば、積もる心のひとひらを交わせるのかも知れなかった。
 私の微睡みを悟るまで、その人は徒然の慰みに詠った。
「お眠りなさい」
 
     x x x
 
「触れたのが分かりますか」
 首肯する。掌の一つが額を覆い、離れ、迷子の様な左の紅差し指を握られて。
「不香の花の霏々として小止みなきが、この朝を憩いました。久堅の、金色の烏ですよ」
 真暗いままで、身の内にあった洞は今やつぶさに満ちて澄み渡り、その人のひとひらを少しも零さず筏にする水面だった。
「あなたは、何を喜ぶでしょうね」
 もう、ここにある。温もりを絆に結んだ刹那から、ずっとある。そして温もりに私が融かされて泉の淵へと小舟を漕ぎ始めるまで、その人はまた物語を落花飛花に積もらせる。
「すぐに、なれます」
 瞼へとわずかな柔らかい重み、栞を挿し挟む様に。
「さあ、お眠りなさい」
 
     x x x
 
「動かせましたね」
 とんとんとん――とん、とんとんとんとん。この指先は歌を告げる。幾度か繰り返し、その毎に、強く。「あまり、性分ではないのですが」波紋の伝わりを黙に待てば、やがてその人は踏み割られる薄氷の様に繊細な波打ちを誦する。
 そっと置かれた手を、今度は私が握る事だった。私からそうしてみると、その人の大きな掌は、力のない、潤びた果実の頼りなさをしていた。
 広野の忘れ霜を見出すかに五指を蠢かせて、その人の掌から手首、腕へと歩く。斟酌するその人もまた体を順送りに動かすから、確かに独歩する錯覚で私の望むところへ辿り着かせる、私は吸い寄せた頬を撫ぜる。輪郭に沿ってその人の形を知る。
 終日、嫦娥の誘うまで、肌の微温な灯りを求めていた。
「――お眠り、なさい」
 
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「あなたは、誰なのですか」
 問うと、ひとひらの便りは途絶えた。許されぬ約定のごとく振舞って、私の泉を華やかに飾るものはもう増えなかった。髪越しに拙く私の頬を撫ぜるのが、ただ、残映として儚き影の鏡写しだった。
「あなたはなぜ、玉の緒のあわいを私に尽くすのですか」
 不意に抱擁がある。判然と拍動は片割れに、向こうで鳴る一つだけが正しく、その人は両腕で小さなレプリカを胸へ寄せ集めている。
「応えて――」
 おねむりなさい。それでも確かに私の泉で響いた、空砲となりながら。
 どうかあなたが、現をひとひらでまた示して。天の呼吸を言って。
 外の面が雪ならば、それは遣らずの雪であって。
 藻掻けども私は点と縮み、虚しく何度目かの暗渠の底へ沈んだ。
 
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 星の頽れる意味が聞こえて冴えた。新たに十全な腕の携えているを熱の迸りより覚えた。雪風巻らしき乱暴と、近きところで、天窮がはつかに軋み錆の音が降る。
「どうしたのですか」
 褥を下る。転び出た薄氷の上で、その腕を頼みに匍匐で徘徊る。ずっと、ずっと。四囲をどれ程巡ってもその人には触れない。行き当たらない。遮られる度に角を折れてはその人を索るが、手が、頬が、いつまでも這う途方には私に馴染むあの肌がない。睦月幾つを数えた今、光をくれた人、恋蛍のまだ幼きを置き去りに見知らぬ彼方へ消えてしまった。
 炉辺の夜咄に私を眠らせ、時に悴ける指を包み、雪晴には可惜夜の麗しきを教えた。その人は尚も幽き残んの花と揺れている。夢幻にして過たず、愛しき香に匂う。
 この楼閣の、同じ内側で。
 
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 外の面などなかった。鳥たちの身を寄す辺縁など、瞳を焦がす稜線など、どこにもなかった。月も雪も花も、よろずのものは透かして望まれる事のなき迷妄だった。種には水を、芽には光を。囀られた享楽で、黒き私の幕が映写した仮象。
 遅れ来る――むつきひとひのひとやです――記憶に淡くあるひとひらは、その夕べ、一夜を指して告ぐ欠片ではなかった。
 ひとやとは鳥かご、鎖された玩具箱の中で、その人は秘してなどいなかった。舞台の上に触れぬ由を知った。
 目が開けてより初めての顔貌と出逢う。深く、祈りを目裏にして。
 その人はただ軽くなり、秀つ枝に託して薄氷をじっと見ていた。
 
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「覚えている事はありますか?」
 車椅子の上で、私は首を横に振る。
 自分の身に起きた実感がまるでない事柄の後遺症で、記憶、思い出めいた全てと両足の自由が失われたらしい私は、病棟の一角でぼんやりと話を聞いていた。挙げられたいずれの鍵も私には不充分で、手応えも、手掛かりもない。
 退屈になって、空虚から白壁へと意味もなく目を逸らす。唯一、その時だけだった。
 何か大切な気のする面影を、揺らめきの向こうに幻視した瞬間は。


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 一箇月も経てば、その頃にはきっと私にも分からなくなるでしょう