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生きて、いたくても――Nov#22

 心は透き通って、澄み渡って、静かだった。その癖、どこか発熱した時に似たふわふわとした感覚がずっと残っていて、思考がままならない。
 形のあるものを考えようとして脳から何かを掴み出しても、まるでダイラタンシー現象みたいに、手を開いて力を緩めると、握っていたものはすぐに融けて、指の間から零れて行く。例えるならまだ言葉のない古い時代、ただ「ある」と言う事だけが確かな感情。それはきっと、楽しいだとか、痛快だとか達成感だとか、現在では名前を持つものなのだろうけれど、今の僕にはそれも曖昧でしかなかった。
 つまり僕は、一つの衝撃的な物語を終えた。そして思考の止まったまま、緩やかなカタルシスの海に、残響を聞きながら、呆然と身を浸していた。

 体の濡れた動物が身を振って水気を飛ばす様に、激しく動き回りながら、心の底に溜まった汚れを、僕はコップと一緒に振り撒いた。泣き笑いみたいな心情だった。
 声は出さない。取り決めの一つ。秘すべき正体に直結してしまう可能性を孕むから。
 偶見も、声の代わりに全てをアクションで体現した。近辺に人が居なくなるや否や、ハイ・ジャンプで地面にコップを叩きつける、対象のない「クエスチョン」を行ったり、片手に三つも取り出して一挙に放擲したり、彼女を皮切りに、パフォーマンスはずっと激化していた。偶見に関しては、喋れない分と言うより、目標を一つ達成してヴォルテイジが高まったのかも知れないし、単純にヘッドフォンから流れている音楽の影響かも知れない。
 ただそれも、活動としての形態に齟齬はなかった。最初に「クエスチョン」とは何をするものなのかと訊いた時、三上の答えはこうだった。「何でもいいんです」。
「どんな芸術運動にも、定義はあります。勿論『クエスチョン』にも」まだ具体性のある内容を聞いていなかったあの喫茶店で、マスターとの契約通りに運ばれて来たブラジル・サントスを飲みながら、語った話だ。
「何故なら、定義のないものは名前に残らないからです。シュルレアリスムが『シュルレアリスム』と、キュビスムが『キュビスム』と呼称されるのには、由来がある。……定義って言うと制約めいていて、私は少し反発したくなりますけど」
 但し、定義の中でなら、そこに制限を作る必要はない。印象派の絵画には、人物の肌として通常あり得ない色を使った表現のものもあるし、写真と見紛う様なスーパーリアリズムの作品も、画面構成の為に建造物を実際より低く描く事だってある。だから僕たちも、「クエスチョン」と呼べるだけの定義の中に居るなら、行動は何だって構わなかった。紙コップに対する扱いは、どんどん容赦がなくなって行く。
 残弾が少なくなった頃に、やっと毛利の姿を認めた。即座に接近すると、僕も二人に倣って変則的に、その横を掠めるアンダー・スロウで「夜明け」を手放した。客観的には最早ただの「プランク」、派手な悪戯の集団だ。
 充足も最高潮の折にまた一人、招待客が訪れた。今度は知った顔だ。美術部ながら体格のよさが特徴的な、電柱の彼、新居君だった。少し焦った様子だ。
「先輩、先生たちが向かって来てるらしいですよ」
「あ、本当?」
「うわ、お前偶見かよ。何だその格好。いや兎に角、早く逃げた方がいいぞ」
「おっけー、とぅ・びー・りでぃきゅらーす! 二人共またね!」
 その言葉は、一瞬で散開の号令となった。
「ありがとう、新居君。ごめん、慌しくて」
「いやいや、そんなんは後で。ほら早く」
 三上と僕も別れて、それぞれのルートで目的地へ動き出す。
 中止の危惧は、当然ながら始めからあった。それだけならまだしも、捕まる訳には絶対にいかない。だから僕たちは周到に、二段階での逃亡と隠伏を計策に加味していた。不審者と言うより既に犯罪者色が強い。
 走って、二館の舳にある自転車置き場を横目に西門から出た。周囲に居る人の隙を窺って面を外す。この面だけが異端だから、取ってしまえば外見は普通に戻る。それをジーンズと腰の間に挟み込んで上からインナーを被せると、ダウンのポケットに忍ばせておいた――折り畳めると言う理由だけで選んだ――ハンティング帽を頭に乗せる。校外だから僕の顔を知っている人物もそう居ないだろうし、着衣も私服だから、現状はディスペンサーを持っただけの一般市民だ。そんな市民見た事ないけれど。
 歩いても三分しか掛からない、近くの――あの公園に着いて、ダウンを片身だけ脱いだ。右腕の袖にディスペンサーを通し、ハンティングの入っていたポケットに先端を突っ込む。服が厚いから、多少シルエットの不自然さは誤魔化せた。余った右手はボタンを留めたジャケットの中に綴じ込み、ナイロンと羽毛の感触越しに器具を支える。見てくれは完成だ。
 第一段階を終え、今度は西門を過ぎて更に東へ進路を取り、来客を装ってしれっと正門から戻る。これから屋上に向かい、一般人から生徒へと戻る第二段階だ。怪しまれず、確実に逃げる為の、分割された狡猾な過程。
 門と正対する本館の玄関口へ。正門を入ってすぐの所で生徒と先生が話していて、それはどうやら僕たちについてだった。自然と足早になる。
 胸が高鳴っていた。全てをやり遂げた訳ではないけれど、「クエスチョン」がもたらした興奮、逃げる時の焦燥、今にも肩を掴まれるのではないかと言う緊張、それでも、気づかれずに戻って来た事への達成感。素材の違う所為で融け合わない感情が、マーブル模様を作り出す。道中で、記念すべき最初の紙吹雪を蹴った。
 思っていた程の心配は不要だった。校舎に入ってしまえば後はひたすら階段を上るだけで、容貌を知られている客引きや呼び込みなどは殆ど各教室の前、廊下に居る。階段で他の生徒とすれ違うのにも、こちらは下からだから顔は上手い具合に帽子で隠れるし、前提として私服なのが大きなカムフラージュだった。
「あ、お帰りなさい」
 扉を開けると、三上はもう制服に身を包んでいて、証拠品は全て鞄か手提げかに仕舞われていた。僕もディスペンサーや面を衣服から抜き取り、楽な体勢を取る。
「三上が一番早いとは、思わなかった」
「意外と、シミュレイション通りに運びましたから」
 僕が西門、偶見が北門から脱出する手筈になっていて、正門の担当は三上だった。明らかに最も危険人物の風体で、一番人通りの多いであろう正門を突破するのには難があるのでは、と僕たちは反対したのに、三上は押し通し、そして誰よりも容易にやり果せてしまった。
「あ、一つ謝らないと。ごめんなさい」
「え、何が?」
「頼んで手紙を撒いて貰ったの、屋上からなんです。他言はしない約束で、信頼も出来る人ですけど、それでも、大事な場所なんですよね。無断で人に教えたりして、ごめんなさい」
「……。ううん、大丈夫。ここがこれからも使えれば、それで。三上が信頼出来るって言うんなら、そうだろうし」
「ありがとうございます。そう言って貰えると、助かります」
「……訊いても、いいのかな。その人って――」
「お待たせー、手間取っちゃった」
 僕の言葉と同時に、ゴール・テイプを切る様な偶見の声が飛び込んで来た。扉に視線を向けてみれば、先程とはまた違う意味で大きく風貌が変わっている。白い眼鏡から取って替わったサングラス、ベイジュのライダースにショート・パンツと、その服装から受ける感じは随分と大人びていて、外見だけでは本物かどうか判別が難しいくらいだ。
「あ、お帰りなさい。大変だったの?」
「写真撮らせてって言われてさー」サングラスを外す。特徴的な、強さを内に秘めた双眸が現れた。それだけでも、曇ったレンズを拭いたみたいに、僕の認識が偶見を取り戻す。
 彼女も、協力者を持っていた。近くから通学している友人に頼んで、予め自転車を借りていたのだ。距離とスピード重視の、大胆な逃走。それで姿を晦まし、帰って来ようとしたところ、彼女の扮装はどうやら実在の有名人がモデルで、途中それを知っている人にもの珍しさから声を掛けられて、写真を頼まれたらしい。コメディアンだろうか。
「いやー、でも」塔屋に背中を預けて、座り込みながら言う。「やっぱ中断されちゃったね、残念。ごめんね、宮下君」
「いや、いいよ。充分に過ぎるくらい」
 実際、偶見が帰って来たその瞬間に得たものは、勝利を確定させる終止符だった。完了とは言えなくとも、終結。それを勝利と称する事の、何が間違っているだろう。
 だけど、ここから、終結を完了にするとしたら。
 まだ残っている「夜明け」の一つを、ディスペンサーから取り出す。
「宮下君?」
 僕はそれを、自分の真上に、放り投げる。
 少し風があった。煽られて、紙吹雪が傾斜をつける。着地した紙コップは転がって、短い小犬のワルツを踊った。紙片は幾つか、外に飛び出して行った。
 復讐。
 それを決めたあの日、死のうと思った自分。
 浄化、されるだろうか。
 死んで、また新しく、生まれ変わる。
 僕は、塗り変われるだろうか。
「みーやしーたくーん」
「……ん、何、」
 振り返ると同時に、偶見の手から離れた紙コップが舞った。視界にあった風景が一瞬、カラフルなクロスワード・パズルに変わる。
「うわっ、吃驚した、何――」
 足元に、軽く弾んだ音を立てて、「朝」が落ちる。
「はい、次っ」
 同じ動作が繰り返されて、降り掛かる色の中で、「朝」の近くに「昼」が並んだ。
「……偶見?」
「進めるよ」
「え?」
 僕が聞き返すよりも早く、偶見は転がる「夜明け」を拾い上げて、
「そお、れっ!」
 渾身の力で、投げ飛ばす。
 消えて行く。鉄柵の外へ。
「……進めるよ、宮下君なら」
 僕の元から「夜明け」が消え去って、
 次の「朝」が、「昼」が残った。
「宮下君は今日、一個の『夜明け』を越えた。だけどこの先も、宮下君にとっての『夜明け』は、それがどんな形であれ、またいつか必ず、迎えないといけない時が来る」
 どうして、君はこんなにも、
「でも、もう知ってるでしょ。いつか必ず迎えないといけない『夜明け』が来ても、その次には必ず迎えられる『朝』が待ってる事」
 僕の心を的確に、掬い上げてくれるのだろう。
「そりゃあ、無責任に聞こえるかも知れないけどさ。今以上に辛い事だって、ないとは限らないし。でもこれは、宮下君の変化とか、宮下君の未来とか……そんなんじゃなくて、宮下君への『信頼』、として言うの」
 ――ありがとう、
「進めるよ」
 僕にも本当に、そう思えるんだ。


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