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生きて、いたくても――Oct#11

 屋上、と言うよりはその扉の前で僕たちは合流し、美術室に向かった。
 本館と特別棟は一階の他、三階に架けられた渡り廊下で繋がっている。四階へと下りると、そこで階段を折り返さずに廊下を逆サイドへと突っ切って、一館方面、北側の渡り廊下に向かう。僕の前を歩く偶見が何となく先導する形だったけれど、僕が出会したくない連中とは縁遠そうなルートを選んでくれているらしかった。
 もう一段降りた三階から、すぐ近くの渡り廊下を通り、特別棟二階の美術室へ。
「やっほー、来たよー」
「あ、珠ちゃん、いらっしゃい」
 躊躇いもなくドアーを開ける偶見に続いて入室すると、既に数人が準備や作業に取り掛かっていて、本当に迷惑そうな素振りもなく、全員が親しげな雰囲気で迎え入れてくれた。顧問の先生は不在みたいだ。
 返事をしたのはその内の一人、絵に向き合っている女子生徒だった。やや童顔気味の輪郭に低めの身長、項の辺りで髪を分けて結った二つ括りと、見た目ではあどけなさのある印象だけれど、対照的に随分もの静かで落ち着いた雰囲気の彼女には、見覚えがあった。
「……あれ? お客さん? 珍しいね。珠ちゃん、誰かと一緒に来た事なんてなかったと思ったけど」
「いやー、美術好きって聞いて、連れて来ちゃった。こちら、宮下君。こちら、みかちゃん」
「……あ、宮下君」横目でこちらを見ていた彼女が、キャンヴァスから顔を上げる。確信を得た。「ごめんなさい、すぐ気がつかなくて。こうして顔を会わせるのは、久し振り、かな。覚えてますか?」
「うん。みかちゃん、なんて言ってたから、三上の事だとは思わなかった」
「あれ? 二人共知り合いだったの?」
「二年の時、同じクラスだったんだよ、私と。ほら、三上と宮下だから、出席番号が前後同士で。それで時々、縁があったり」
 と言っても、過不足なしにその通りの関係だ。つき合いは浅い。接する機会があったのも、二年の始めで席替えするまでの期間や、出席番号順に配席される考査の時くらいだ。偶見の話す様な実力を持っている事は疎か、絵を描いている事、美術部だと言うのも初耳だった。
「で、進捗は? あ、凄い仕上がってるじゃん」
「こっちはね、もう殆ど完成。今はまた色々違うのを描いてて、時々目を向けた時に、気になる箇所があれば直す、って感じ。ずっと見てると、分からなくなるから」
「ほら宮下君、これこれ、コンクールに出すの」
「あ、宮下君の審美眼でも評して欲しいな。タイトルは『まだ動くもののある静物』、感想は自由に、遠慮なく、思った通りにお願いします。その方が、ありがたいですし――」
 三上の声が耳に入り切らない内に、僕はもう画面に没入していた。思わず息を呑む。……いや、呑まれたのは僕の方だ。
 作品自体は、まさに静物画そのものだ。黒い背景に対して、バスケットに入った果物や食器類、皿に乗せられた魚などが精巧な写実性と濃いコントラストを以て描かれている。また、画面外の左側手前に光源を置いたと思われる照明の当て方が陰影の印象を強め、それが生み出す二重のキアロ・スクーロ――明暗法――が劇的な効果を生み出している。
 異様と言えば、その中心に据えられた魚の頭部や尾鰭の辺りに、かなり薄い色彩で背景の上を撫でる曲線が幾条か描き込まれ、また魚の全体的な周囲にも、同色で暈しに近い処理がされている事だ。写真で言う「被写体ブレ」に似た演出。だけど、それは確かに「まだ動くもの」としての動きを、鮮烈な画面に違和感を与えないまま残像的に表現していて、水と油を融和させたかの様なその力量には瞠目する。
 と言っても、魚自体の描き方は完全に生気を失った静物としてだ。それが命を持った「まだ動くもの」としながら「ある」「静物」と形容する題名と繊細なバランスを成立させていて、技術のみならず意味合いも兼ね備えた、タイトルまで含めて一つの作品に纏め上げている。これが、僕と同い年の人が描いた絵画なんて、想像だに難しい。
「……もしかして、美術詳しいんですか?」熱が入って、感想を精細に述べ過ぎた。
「詳しい、って程じゃ。ちょっと趣味があるだけ。単純な印象としての感想だよ」
「でも、そこまで見てくれるなんて、嬉しいなぁ。まさにそれが、この絵で私が意図してた事なんです。一種のヴァニタスですね。まだ生きている、だけど消え行く命を描こうと思った時に、そのデリケイトな感じをあくまで静物のままにしながら、一画面に於ける動的な表現って意味で、未来派の手法と言うか、考え方を取り入れてみたくて」
「うん、分かるよ。『階段を降りる裸体No.2』みたいな時間経過や動きの表現、だよね」
「そうですね、あくまで考え方ってだけで、そこまで激しい表現ではないですけど」キュビスムや未来派の影響が見られる、デュシャンの作品だ。流石に僕よりも精通しているのだろう、説明もなく伝わった。
「その、命を静物に託して描くって所、動作を捉えた表現を静止した画面に持ち込むって着眼点も、面白いと思う」
「ほら、静物画って、英語だとスティル・ライフって言うじゃないですか。私も今まで色んな静物画を見て来ましたけど、まだ生きているみたいに見える絵、どっちかって言うと『スティル・アライヴ』だなぁ……なんて、感じる絵が時々あって。そこですね、出発点は。実験的な試みだから、習作もかなり描きました」
「……うわー、めっちゃディープな話してる」
 偶見の呟きで我に返る。つい昂揚して話し込んでしまい、僕の方がよっぽど迷惑を掛けたんじゃないかと思ったけれど、周囲は気にせず各々の作業を進めていた。慣れているのかも知れない。放置されていた偶見も別段気を悪くした風もなく、僕たちの顔を見比べている。
「お二人さんさぁ、何でもっと早く仲よくならなかったの」
「ね。勿体ない事、してたのかも。どうかな、これから宮下君も珠ちゃんみたいに、時々遊びに来てくれたり、なんて。勝手だけど、またこうして感想とか聞かせて貰えたら、私も嬉しいですし……あ、連絡先とか、聞いてもいいですか?」
「……うん、どうぞ。それじゃあ、また、適当なタイミングで来るよ」そこでふと、疑問が浮かぶ。「あれ、三年って部活、もう終わりじゃなかった?」
「はい、一応そうですね。これは先生と周りのご厚意で、美術室を借りての個人活動って事になってます。これからは進路を専門的に決めて、留学も出来たらいいな、って」
「へえ……凄いね、本格的に考えてるんだ」
「みかちゃんなら心配なしで、活躍するの楽しみにしてられるよね」
「ふふ、ありがとう。甘い世界じゃないけど、本音で挑戦してみたいから」
真っすぐな目。未来を見ている、目。
「壁は高いでしょうね。でも、その壁を突破した人だって沢山居るんです。どうにもならない訳じゃない。だから、壊してみたいんです。それでもし駄目でも、傷くらいはつけられるかも知れないし、流れた血だって跡になる。戦った証は、そこに絶対残るんです。誰が知らなくても、私が知ってる」
 動く事。壊す事。まさに、未来派の考え方だ。未来派……未来は。
「戦った事、戦わなかった事。私だけは全部、知ってるから」
 
 中途半端な時間だった所為か、人の数も生徒の数も、車内にはまばらだった。
僕たちの学校は、大きな路線の一駅から派生したローカル線の終点が最寄り駅で、電車通学する生徒は全員、この路線だけは共通の通り道に当たる。沿線に住む生徒は、自転車通学が圧倒的に多い。
 偶見はこの四駅の後、僕とは反対方面の電車に乗る。一〇分にも満たない時間だけれど、彼女が隣に居るのは新鮮だった。
「宮下君と帰るの、初めてだ」
「そうだね。……寧ろ、今までそうした事がないのが不思議なくらい」
「……言っていいのかな。あたしはね、誘おうと思った事あるよ。一緒に帰ろうとか、どこか遊び行こうとか」一瞬、口を噤む。「宮下君が嫌かなって思ってた。どう言う状況か、あたし全然知らないけど、女の子と一緒に居るの、『誰か』に見られたりすると」
「あ……」
 自分の至らなさに、二の句が継げない。僕はまだあの縛めに囚われて、自分の境遇について話せずにいるのに、偶見は手探りで、そこまで配慮してくれていたのだ。
 顧みる。偶見のロール、或いはポジション。彼女に対する自分の認識と現実の乖離。
 出会ってからまだ長くない僕に対して、彼女は色んなものを与えてくれた。だけど、僕はそれに浸かって甘んじているだけだった。それが一方的、恣意的なものでないと、誰が言えるだろう。彼女に与えられた自信だって、いつの間にか独りよがりな解釈で自分のものだと思い込んでいる。僕が彼女をどう思っているかじゃない、客観的な関係性の問題。これで尚、僕は偶見を、例えば友人と呼べるだろうか。受け入れがたい答えだけれど、受け入れがたいと感じている事が、既に恣意的だ。
「……あちゃー、やっぱり嫌だった? ごめんね、時間も時間だし、それっぽい奴も見なかったし、多分大丈夫だと思うんだけど」そうやって明るく振る舞うのも、彼女の優しさだ。
「違う、ごめん、謝らなくちゃいけないのは僕の方だ」
 違う……何が違うと思って、僕は「違う」と言っているのだろう。
「ありがとう、偶見。全然、嫌なんかじゃないし、寧ろ、嬉しいと言うか……、伝えるの、上手くなくてごめん。兎に角、その……ありがとう」
 取り繕う言葉が、口にした端から腐敗して行く程に白々しい。その意味に嘘はないのに。それ自体は本心なのに。ただ、どう着飾ったって、醜悪な片利共生を覆せない。だけど。
「……えへへ」
 彼女は笑う。笑ってくれる。
「そう言ってくれたら、あたしも嬉しいな。ありがと。じゃあまた何か、誘ったりしてもいいかな。その時は宜しくね」
「……うん、また、宜しく」
 またその時が来て、僕は彼女と対等な位置に立てているだろうか。
 胸奥が風化する。荒れた気流が心の表層を掠め取って行く。涸れた感情の粒子が、体の内壁を繰り返し往来する。
 何か大事なものを扱う様にして、電車が緩やかに速度を落とし始めた。


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