火葬(短編・2/2)

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「……ユエムには、どう映った?」
 昼前には話してあった、妹が感染しているかも知れない事。彼女にも観察して貰う為に、先導を任せたのだ。今は秘め事を抱き合う盟友、最も信頼出来る心の支柱。症例を目の当たりにするのはどうやら彼女も初めてで、自然な所作と特別な注意、私が与えた大きな役目を必死にこなしてくれた。
「私は普段のご様子に詳しくはありません、ただ、主様の下へいらっしゃる時にお見掛けする妹君と、お変わりはあまりなく思いました。少し、ぴりぴりはしておられましたが」
「そうね、私も同じ。性格や立ち居振る舞いは、妹のものだった」
「でも主様はお会いしてみて、確信をお持ちになったのでしょう?」
「……ええ。小さく、けれど決定的に、どこかを掛け違えている」
 自室が少し辛くなり、私はユエムと〈図書室〉の方へ連れ立って、関係者だけが行き来する空間の更に奥、祖父の書斎まで足を運んだ。どの使用人にも鍵を預けていない、全て私が手入れする、本にまつわる密談には相応しい部屋。
 大抵は質素だった。敢えて狭きを選んだ祖父だけの場所、漫ろにさせる過度な装飾は好まなかった。中身のまばらな書棚。額縁には絵画でなく、転記した韻文の一節が収められている。リズノーに嫁いだ祖母の自伝から、祖父に当てた部分の抜粋。世に出てはおらず、書き残したくて綴られただけの、言わば日記の様なものだ。
 三連で並ぶ縦に細長い窓は縞模様めいて外光を伝え、特徴のない机と椅子が壁に沿って配置されているのは、扉が視界に入るのを嫌っての事だった。ここで眠る夜もあったのだろう、簡易な寝台が一つあり、ユエムはそこに座らせた。
「ねえユエム、『感染』は治るもの? 私たちでさえまだ信じがたい、超常的で、説明のつかないこの現象には、果たして解決があるの?」
「はっきりとは申せません。私も整理がつきかねております、『感染』などと言う事が、実際に起こるのだと思い知らされたばかりですから。病ではありませんし、母を除いて秘密を共にする人のなかった天涯孤独の身、残念ながら医者に当たる存在にも覚えはありません。……ただ、これが呪いに似たものと捉えるなら、元凶を断てば、或いは」
「じゃあ、やっぱり」
「病原となった本、それを見つけ出し『火葬』する。後手ではありますが、私めの頭に浮かぶとすれば、もう、それくらいしか」
「分かったわ。……出来る限りをするしか、ないものね」
 もう少しだけ、待たせてしまうだろう。けれど必ず、私がヴィルジニーの台本に幕を引いてみせる。サアラの人生を喰らい、代役にした。同時に私から妹を奪ったにも等しい。幸か不幸か、本による災厄が〈リズノーの図書室〉の主たる私のこんなにも近くで発現したのだ。
 ならば、私が果たす。祖父より継いだ務めの全てを。
「ねえ、ユエム。あなたには分かる? ……私には、『魂の有無』は判別出来る。けれど、それが『腐っている』かまでは。立ち会った事もないから」
「ご心配には及びません、分かりますとも。お探しの際はどうぞ、ご同行させて下さいませ」
「ありがとう。……それから、もう一つ」
「はい、ご用命なら何なりと」
「――今日は、ここに泊まって行って。誰かに居て欲しい、そしてそれは――あなたでないと駄目なの、ユエム」
 寂しさか、不安だろうか。意識もしない内に、ユエムよりもよっぽど子供じみた、懇願めいた言いつけをしていた。それでも。
「かしこまりました」
 彼女は、聞き入れてくれた。単なる指令を超えた様な笑みで、私の心を掬い上げて。
「喜んで、お供致します」
 
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「心苦しゅうございます、けれどもはっきりと申し上げますわ。お姉様、医者に診て貰いません事?」
 一晩の内に強く決意したのだ。情緒は不安定に揺さぶられ、天の試練かの様な艱難辛苦、だとしても、それを涙に暮れたまま脱落する私では、やはりなかったらしい。極めて冷静に対話を試み、姉を諭し、もし全癒にまでは至らなくとも、悪しき精神の駆逐に尽くす。私の出来る限りだった。
 翌日は通常の開館日、昼前の空きやすい時間に赴いた私が案内されたのは、今度は本宅ではなく〈図書室〉の奥。業務の真っただ中、一刻も早くの解決の為に無理を言ったのはこちらなのだし、祖父の書斎とは好適な環境を与えてくれている。懐かしい風景だ。楽にしていい、と姉は温和に声を掛けてくれたけれども、頑なに直立の姿勢を崩さず向き合った。
「……医者?」
「ええ、『アンナお姉様』。きっとご理解頂けないかと思います、今の『ヒイナ』様にはご自覚がおありになりませんもの。けれど、これだけお話しすればもうお気づきでしょう? ご病気でもなければ、状況の説明がつきませんの。今よりもっと重くもなれば、何もかもお忘れになってしまわれるのみならず、やがては死に至らしめる結果にもなりかねませんわ。例え今のあなたが誰であれ、それは私も望まなくてよ」
 感情を欠いて、淡々と事実に基づいた考えだけを伝えた。それは愛慕の裏返しだ。姉は一瞬を沈黙する。まるで別人に取り替わった訳ではない、性格や言葉遣い、まだヒイナなる妄想は姉を滅ぼし切ったのではない。俯瞰客観は昔から、姉の特権の様なものだった。
「……私も、話しやすい様に話させて貰うわね。サアラ、あなたの言う通り、確かにおかしな事が起こっているわ。現に互いの名前を呼び損なっているくらいには、ね。医者もいいでしょう、但し、時間をちょうだい。私には〈リズノーの図書室〉を取り仕切る責任があるのよ。暫く休館にするのだって、その段取りをつけなければならない」
「そうですわね。急ぎたい気持ちは山々ですけれど、〈図書室〉なくしてお姉様を語るのは傲慢と言うものでしょう。そして、私たちリズノーの誇りの為にも」
「ありがとう。……加えて幾つか、訊いてもいいかしら。私の記憶の、手掛かりになるかも知れないの」
「勿論、協力は惜しみません事よ」
「……リズノー邸に、あなたの私物ではない、元々お爺様の所蔵していた本はある?」
 予想と異なる、意図の汲み取りがたい質問だった。いいえ、おずおずと答え始める。鍵にさえなれば内容は構わないのだ。
「広い建物ですけれど、断言してみせますわ。私も立派なリズノーの継承者、身の回りのものはちゃんと把握しております。お爺様の所蔵品は残らず、この〈図書室〉に。家の本は私が購入したものだけでしてよ」
「あなたの作品は」
「……今書いている途中のものを除けば、〈図書室〉に置いて頂いている詩集と同じものをそれぞれ一冊ずつ。でなければ、習作や駄作の類は捨てましたわ」
「そう。じゃあ、『ドミニック・スーシェ』の由来を教えて」
 どうしたのだろう、私に関する事ばかり。これでは――「これでは、尋問ですわ」
「……、仕方ない、でしょう? 私には『ヒイナ』の記憶しかないのだから、『アンナ』について尋ねられないのよ。どんな人だったかを聞かされても、何も感じないわ」
「ええ、ええ。ドミニックは、男女どちらにでもある名前だからです。男と偽るのも気が引ければ、女を匂わせたくもなかったの。……ああ、でもこれはいい端緒になるかも知れませんわね。スーシェはあやかった名前でしてよ。美しい言葉を知る、祖母の旧姓に」
 その刹那、だった。
 姉の目は驚愕と察知に大きく見開かれ、しかし、自我の奪還を成した表情では絶対になかった。もっと遠大な理を突然に感得した様な、底知れぬ面貌。
 何かを、掴んだ。
 正体不明の掴んだ何かが、私には怖ろしくてたまらなかった。
 
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 その刹那、謎は完膚なきまでに解き明かされた。
 疑問だった。なぜサアラ、或いはヴィルジニーは、空想に侵されながらも「リズノー」の認識に齟齬を生まなかったのか。簡明だ。それは祖母が、まさに「リズノー家の一員」が著したものに感染したからだったのだ。
 配架、目録、私も主として、〈図書室〉にある全作品は展示や表裏に関わらず、漏らす事なく記憶している。例え私的な魂の一冊だとしても。
 祖母の記した書物は、それしかない。
 普段開ける事がない上段、祖父の机でただそこだけが鍵つきの抽斗。祖母の生涯はそこに恭しく保管されている。共にある証、それくらい大切な品だ、とても、とっても。けれど最早、私に看過は出来なかった。
 座していた椅子で妹に背を向け、携行する〈図書室〉の鍵束から、使用人では持ち得ない一つをそこへ差し込む。錠は外れ、諸悪の根源などとは呼びたくない自伝が姿を見せた。私には本の拍動が、命の有無が分かる。けれど眼前にして、それが「腐っている」かの判別はやはりつかなかった。詮ないとしても火葬しただろう、この自伝が力尽きたのならば。しかし私には最初から、現にこうして残存している様に、拍動を感じてはいなかった。既に腐乱してから相当の時間が経っているのかも知れない、祖母の生涯と照らし合わせても私への影響はなかったみたいだけれど、妹はいつしか病原を浴びた。彼女の亡霊に、取り憑かれていた。
 私は走り出していた、昨日のサアラをなぞる様に。そしてサアラもまるで同じ繰り返しをした。「お姉様、どこへ行くの」。構っていられなかった、考えていた予定よりも大幅に早く時は訪れたのだから。
 どんな仕事にも、焼却炉は無機質に出迎えた。これ以上申し訳なく思う火葬はないだろう、しかし祖父は、天国で許してくれる筈だった。〈リズノーの図書室〉の主として、いかに辛くとも、遂げなければならない役目なのだ。
 すぐに火を熾し、待たず病原を放り込む。サアラは追って来ていた。
「アンナ、お姉、様……? 何をしておいでですの……?」
「全てが終わるわ、サアラ。運命を待っていて」
「それは、それは、っ! 何よりも貴重なものでしょう! どれ程世間には価値がなくとも、リズノーが守るべき一冊なのに、っ」
「その通りね。……でも私には、もっと守らなくてはならない存在があるの」
「……ヒイナ、邪悪なる者よ。お姉様に何をした! 黒魔術か、類した怪しき儀式にでも生まれたのでしょう。どれだけ人を危ぶめば気が済むのですか、これでは魔女狩りに遭ってしまいます! お姉様だけでなく、私まで……嫌、嫌よ……私はやっと、リズノーに恥じぬ名声を手中にするところなのに……」
 目を覆いたくなる程、哀れな姿だ。黒魔術。魔女狩り。あまりにも突飛な発言に私は確信を強めるばかりだった。長きを生きた祖母の背景が、色濃く映る。
 どうか、どうか。終わらせて。聖なる炎で、妹を解放して。
 気がつくと、ユエムがすぐ側に控えていた。そう言えば部屋を出る時に知覚しなかった、それだけ必死だったのだ。今日を迎え、彼女は書斎の前で待機させていた。
 この火葬がきっと妹を取り戻せると信じるわ、ユエム。見つけ出せたのよ。そして、私に尽くせる最大限の手段を即座に取った。
 真実を知る者、助言をもたらしてくれた救世主。
 結末を、感謝を、今はただ言葉なく伝える様に、彼女へと目をやった。
 そして私は、裏切られた。
 ユエムの双眸は、憐憫の色を浮かべていた。
 
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「……ねえ、どうして? ユエム、戻らないじゃない、妹が……、サアラが、帰って来ないのよ。病原は火葬した、すっかり灰になるまで、でしょう? なのに、どうして、……っ」
 気力の果てた様になった姉は、男の使用人三人掛かりで自室に運ばれた。見てはならなかった様な、病的な光景に立ち会った私、こちらまで異様に困憊してしまい、また姉の側に居るのも躊躇われ、応接間で小憩を取っていた。ユエムと言う少女と共に。
 凡そニ〇分も経つ頃、使用人が言伝をしに入った。姉が、ユエムを呼んでいる。一介の、年少の彼女に寵愛のごとき待遇をする事、それも今では納得していた。姉をよろしく頼むわね、立ち上がるユエムに告げた。彼女は返した、お部屋の前まで、どうかご同行願います。
「分からない、分からないのよ。他には考えられないのに、あの一冊ではなかったの? そうでないなら、私にはもう……」
 扉越し、硝子細工の罅から聞こえでもする様な、あまりに弱々しい声音。
「落ち着いて下さいませ、主様。私めの見当が間違っておりました、ですがご安心を。必ずや終わりますとも。お疲れでしょう、今はごゆっくりお休み下さい」
 ふっ、と、姉が眠りに就いた事を覚えた、まるで魔法の訪れだった。やがて凛として平穏な表情のユエムが部屋を辞去し、姉だけがお伽話になる。
「具合はどうだったかしら?」
「ええ、多少の憔悴はしておられますが、問題はありません」
「よかったわ。……あなたが言うのならば、そうなのでしょうね?」
「勿論です。必ずや終わりますとも。……応接室で、今暫くお待ち下さい」
 彼女は微笑んだ。それは全く、魔女を思わせぬ純粋さで。
「次に主様とお会いになられる時こそ、悪夢が覚める時なのです。ヴィルジニー様」
 
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 淡い夢を見ていた。或いはまだ、夢の中に居るのかも知れない。
 心地よい暗闇、遠くにある光。それが緩やかに近づいて、闇の深度が浅くなるにつれて、少しずつ融け始める記憶が確かにあった。
 お爺様の柔らかな面差し。委ねられた〈リズノーの図書室〉。
 麗しき私の妹は未来、大きな成功を掴むに違いない。
 そして、ユエム。――ユエム? なぜ、あなたが、――
 走馬灯の様なイマージュが、私から離れて底へと沈んで行った。
 或いはもっと優しく、どこかの果てに燃え落ちた。
 
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「ヴィルジニー様、突き止めました。曇りなきまでに、何もかも」
 ユエム、姉の従順な使用人は、経歴まで含め一切を話してくれた。暴徒と化した民衆の魔女狩りによって母を失った「本物の魔女の末裔」である事、書物の魂を嗅ぎ分けられる事。「感染」と言うにわかには受け入れがたい現象も、無残な姉の姿を見た後では否定する術がなかった、であれば、ユエムが魔女である現実も飲み込まざるを得ない。
 リズノーとして捉えるのなら、変わった生活だ。抱えの調理師長や補佐役、どころか住み込みの者さえおらず、それでも昼餐には可能な限りのもてなしを尽くしてくれた。用意があると大広間に移った。焼き串、香辛料、ブールの甘さ。そんな慣れた食事の風景や意趣とは異なって、私は姉の世界に触れた。
 応接室に戻ってからは、ただユエムを待った。時間を掛けて、彼女は現れた。きっちりと、スヴニールを持って終点へ。
「ありがとう。原因は?」
「主様の自室にございました。お伝え致しました様に、私めには感じ取る力が弱いのです、そして普段は雑務を任されておりますもので、主様のお部屋に入る事はありませんでした」
「それが、お姉様を蝕んでいたのね? よく解いてくれたわ、あなたも当初は、私の気が狂れたのだと疑っていたのでしょう?」
「同士でしたから、……それまでは」
 どこか寂しげなのも首肯出来る、彼女の生い立ちを辿ってみせるなら。
「火葬された祖母君の自伝は、祖父君の書斎にありました。主様とヴィルジニー様がお話しになる前日、私も初めて足を踏み入れたのですが、そこに腐っている書――『死ねない書』の気配などなかったのです。勿論気づけば進言しておりました、それは明らかに不自然でした。主様の、『火葬の対象』として」
「……死ねない書?」
「病原となるのは、生きながら魂が腐り、死ねずにいる書の事です。例えば、未完、遺作、絶筆――『終わりで止められていないがゆえに、そこから漏れ出してしまう書』。つまりはまだ生きていて、言い換えると、通常の書と死後の書を比べるならともかく、能力を有していれば腐っていようとも『生きている』判別はつく筈なのです。主様は、『能力によって本の生死がお分かりになる』訳ではありませんでした」
 ああ、理解する。終わりが目的だとしても、それが未完の様なものなら、確かに他人の手で完成させる事は難しい。だから『火葬』するのだろう、終止符を打つ為に。そして感染なる現象が、世界に決して多くないのも。
「……問題の作品は、本による感染を防ぐ為に焚書する、と言う物語だったのです。現実と設定が偶然にも一致した、或る種の逆転現象を起こしておりました。私も気づかなかった、信じてしまいました。同じ能力をお持ちなのだと。けれど主様こそ、物語に感染していただけの事でした。前後がおかしくなる様ですが、主様が本物であれば、今回原因となった書が、そもそも原因となる訳がありません」
「では、ヒイナ、サアラなる人物も」
「単に物語の一員です。苗字がない事で、主様は『ヒイナ』と『リズノー』を同時に演じたに過ぎません。いずれにしても、フランスの普遍的な人名とは異なっています。……私共はアンナ様を、常に主様とお呼びしておりました。一方、ヴィルジニー様は」
「そうね。私の使用人たちはずっと、この名前で呼んだわ」
 掛け違えて、しかし歯車は見事に噛み合いながら回り続けてみせた。本当は生まれていた誤差に竦む事なく、姉も使用人たちも、主従を超えたユエムさえ、偶然の悪戯は運命を働かせたままで、止まりはしなかった。
「それは有名な書籍なの? ヒイナやサアラ、私は寡聞にして覚えがありませんの」
「……未完、遺作、絶筆。それは基本的に、世へと広く出回ってはいないものです。そして筆跡を見る限り、きっと、アンナ様の著したものかと存じます。火葬すべき対象の認識が違っていたのも、創作の設定がわずかに現実とずれていただけの事です。……これは私めの推測に過ぎませんが、主様は物語にご興味がおありだったのでしょう。しかし、自らの物語は途中でやめておいでになられてしまった。腐食の度合いから見ても、数年前には。書く、と言う希望に対して、主様は、ヴィルジニー様に託しておられた」
 合点が行く、その心づかい。ヒイナであっても、お姉様はどこかに残っていたのだ。
「……で、ユエム。病原はどこに?」
「危険な存在ですので、私の方で既に『火葬』致しました。お待たせしてしまったのはその為です。ご様子を伺いましたが、今や主様はすっかりヴィルジニー様がご存知のアンナ様に戻っておいでです。書の妄想に準じた記憶は曖昧で、『ヒイナ』を巡るヴィルジニー様とのお話し合いや、それに……私と通じ合った事も、殆どお忘れになりました」
「そう。……あなたにも辛い思いをさせたのね。過ぎた口を出すけれど、また、下女のごとき扱いでしょう?」
「構いません。私にとって、主様は主様です」
 再び、ユエムは健気に破顔してみせる、幸福の総量でも気に掛ける様に。
「ご安心下さい。ヴィルジニー様のお心を煩わせるまでもなく、〈図書室〉も本宅も全て回りました。『死ねない書』はどこにもありません。これよりアンナ様はずっと、あなたの姉君です。もう、侵されませんから」
「そうではないのよ? ……ユエム。あなたの功績は、私の命尽きるまで、いつまでだって覚えているわ。あなたはまた、一連の騒動などなかった事にして、アンナお姉様の忠実なるしもべを務めるのでしょう。勿論、尊重するわ。あなたの素晴らしき精神を。……でもあなたこそ永遠に、偽らざるリズノーの恩人よ。例え他者には見向きもされず、歴史が語り継がずとも、どうか忘れずにいなさいな。私はあなたを、お姉様に与えられたあなたの名前を、心に刻んだわ。ユエム、あなたの崇高な魂がリズノーと共にある事、どうか、忘れずにいなさいな」
 精一杯の労いを称えた、心を尽くした、途端だった。
 あれ程に気丈を振舞ってみせたユエムは、
 少女の年相応にわめき、泣き出した。
「ヴィルジニー様っ、ヴィルジニー様……っ!」
「今は好きなだけ泣きなさい、ユエム。そして今度は、お姉様と一緒にリズノー邸へとお越しなさいな。報われるべき行いをしたのだもの、私にも相応に返させて貰わなければね、そうでしょう?」
 重きを抱えた少女の涙が止まるまで、私は胸を貸し寄り添った。
 あなたの記憶からは、失われてしまうのでしょうけれど。
 大切に育てる事よ。今回の殊勲を覚えずとも、いずれ分かる筈だわ。
 お姉様。あなたはとてもいい子を持ったのだから。
 
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 恐れ多くも私が主様のよりどころとなった期間など、数えるまでもありません。とても短い時でした。けれど私の心の中に、一度でも許された思い出は朽ちる事なく残っております。
 今の主様は、とても元気でおられます。私は命に従い、毎日をより鮮やかに飾ってみせる為に、それは雑務と呼ばれる、誰にでもこなせる浅薄な仕事を全うするのです。でも、私は日常がただ安らかにある幸せを噛み締めております。
 ヴィルジニー様のお口添えもあり、私はあれから何度か、主様の従者としてリズノー邸へと赴きました。その毎に、私は天上の至福を味わわせて頂きました。世間に疎まれ、母を亡くすまでに至った魔女の子として生まれた意味が、価値が、享受出来るのです。
 
 もしあなたが、この物語をご覧でしたら。思い返してみて頂きたく思います。お近くに、その最後を遂げられないままのものはございませんか?
 どうかお救いになって下さいませ。あなたの手によって。
 私は勿論、物語についてお話ししているのではないのです。
 そう、それは書の魂などでは決してなく――あなたの魂が、弾けて消えてしまう前に。


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 あなたには「守れない約束があった」で始まり、「手のひらから零れ落ちた」がどこかに入って、「ぱちんと弾けた」で終わる物語を書いて欲しいです。

 あなたには「弾けて消えてしまう前に」で始まり、「全ての出会いには意味があるらしい」がどこかに入って、「また来世で」で終わる物語を書いて欲しいです。

#書き出しと終わり
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