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生きて、いたくても――Dec#29

「つまり『スプリー・スリー』の中には、全てを完璧にしようとした時、俺を使うのが一番の名案だと思ったとんでもないやつが居る訳だが……お前の役割がエイジェントなのか、アイディア・マンなのかは気になるな」
 相変わらずの言い回しにも、困惑が滲み出ているのが分かった。
 昼休み、用事があると偶見に連絡してから、細井先生の所在を確かめに職員室へ訪れると、先生はちょうどそこに居た。場所を変えて貰い、美術室に向かう。部活はあくまで部活なのだろう、放課後の普段慣れ親しんだ景色とは違って、他に人の姿はない。
「……そのアイディア・マンは、まだ他の誰にも、仲間にさえ話していません」
「あのなぁ。使えるものは使えと言ったさ、確かにな。だが、揚げ足を取ってる自覚はあるだろう。片棒を担げってのは大胆に過ぎないか? 見つかってまずいのは俺も同じだぞ」
「その時は……、フライト・バックに乗って、高飛びして下さい」
 浅短ながら細井先生流の冗談で受け答えした心算だったけれど、はた、とその顔が剽軽に固まる。……やっぱり、僕にはセンスがないのだろうか。そう思っていた所に、小さくくぐもった笑声が漏れる。
「中々一丁前な台詞だな。……あっちに移ろう」部屋と部屋を直接繋ぐ、美術準備室への扉を指す。「見せたいものがある。呼び出したあの夜にも、いや、もっと以前からもあったものだが、それを見るならこっちから入るんだ。そうすればご機嫌さ、出迎えをしてくれる」

 既に小窓から見えていたものは、引き戸を開けると全貌を現した。
 幻想的な絵画が数点、並ぶ。淡い色彩のイメイジと、どこか寂れた風合いの背景が、落ち着いた纏まりの印象を織り成している。全体を通じて魅力的な色使いの画面には、星や虹なんかのいかにもファンタジックなモティーフの他にも、古城や廃寺、どこか愁いを帯びた表情の人物などが配され、それでいて柔らかな希望や幸福感を演出している。
 しかしその中で、いや、その中だからこそ一際目立つ、真ん中の作品。
 それは、息を呑む程に歪で、邪悪な絵画。人間と言う存在に疑義を投げ掛けた暗い戦後美術や、あの時の夢に出て来た「砂に埋もれる犬」を含むゴヤの「黒い絵」シリーズ、そう言った悍ましさのある作品と同列の、惨憺とした絵。
「これは……先生が?」
「ああ、周りのはな。このブルズ・アイだけが違う。旧交のあった芸術仲間のさ。……宮下は、リョウジ・ミギトを知ってるか?」
「それ、ってまさか、あの『量子テレポーテイション』の?」
「知ってるなら話が早いな。これはミギトの作品なんだよ」
 今や芸術界でタブー的な扱いさえされるリョウジ・ミギト――右門量子に、こんな所で出会えるとは思わなかった。
 最初は、各地のフリー・マーケットに現れては、出店者の登録もせずに自身の作品を詰めたトランクを開いて置き去る「無価値の絶望の価値」と題した活動で知られ始めた。トランクの蓋裏には「Take Free」の文字が書かれ、作家は自身の絵を「無価値」と位置づけている。しかしフリー・マーケットに正統な絵画が無料で出されたとあれば――それが怖気立つ様な画面だとしても――「価値」を見出して持ち帰る人も居る。その作は時にネット・オークションや販売サイトに出品されて、更なる「価値」が付随した。芸術に対する価値を皮肉的に批判した活動、と言う評価が一般的だ。
「偶然その現場に居合わせてな、少し悪戯したんだよ。放置されたそのトランクに油性ペンで『無価値の絶望の泥棒』って書き足したんだ。そして、絵が捌けるまで俺が管理した。一種のアプロプリエイション、盗用芸術と言えるかな。どこかで見てたんだろう、少し経ってから声を掛けられたよ」
「先生、直接の知り合いなんですか?」
 右門量子は「バンクシー」なんかと同じく、正体不明だ。その作品も絵画が主軸ながら、発表よりも活動で利用された為に各地へと散逸していて、纏まった資料などもない。
「そうだ。それ以降親交があってな。この絵もそうだし、他にも何作か貰ったのが家にある。ご存じの通り、これがよく知られてるミギトの作風だ。死とか怒りとか痛み、一言で纏めれば――『負』のイメイジか。この『負』に属するものってのは、強大な力を有してる。常にだ。そして奴の絵には『負』の力が尋常じゃなかった。俺もな、その影響を受けた絵を一時期描いていたし、当時の精神は不安定だった。だから知ってるのさ、その怖ろしさを。……そして本人はと言えば、完全に呑み込まれてしまった」
 フランシス・ベイコンを想起させ、恐らく実際に意識や影響もあったと見られている右門量子の画業。「絶望の絵画」は、単なるイメイジから人物などの現実に即した題材へと変遷し、見て取れるくらいに暗黒の深みへと入って行った。そして彼の活動は突然、終止符を打つ事になる。その名を轟かせた「量子テレポーテイション」によって。
 ボディー・アートやトランスボディーと呼ばれる芸術傾向がある。友人に自分の左腕を撃たせた、クリス・バーデンの「射撃」、腹部に剃刀で星型の傷を描き全裸で氷上に仰臥する、マリーナ・アブラモヴィッチの「トーマスの唇」など、その中には特に過激なものが幾つも存在した。もしあの行為を芸術とするならそこに分類されるであろう「量子テレポーテイション」は、簡潔に表すなら「自爆」だった。
 大量の畜肉を積み込んだ車で廃工場の中に乗り入れ、彼はその車内で事に及んだ。活動の記録は、工場の外壁に貼りつけられた自筆の手紙と、現場の証拠だけ。一連の目撃者や、セットされたヴィデオなどの媒体もない。更に手紙には目的や動機も特記されておらず、ただただ最期の芸術であると主張する内容だった。元がメッセイジ性の強いアーティストで、食肉を共にした自爆だったから、色々な憶測も飛び交ってはいた。けれど、何より激しい非難の対象だったし、当然、事件として扱われた。
「ミギトはそう言う奴だったし、そう言う事をするまでになっていた。俺はその時に目が覚めたんだ。あいつの絵を側に置いてるのは自戒で、俺が今こんな絵を描いてるのは『負』の反動だよ。……いいか、宮下」前置きが長くなったな、と区切って、先生は本題に切り込む。「お前が戦ってる相手の正体も、これだ」
「戦ってる相手の、……?」
「奴は大仰にこう語ったんだ、マリオ・サヴィオみたいな熱の入れ様さ。俺は『性悪説』が正しいと思ってる、ってな。人間は元来悪で、善は後天的にのみ習得出来るってあれだ。無意識の善はあり得ないが、悪は無意識にも起こり得る。そしてその引力は比じゃない。時には誘惑に勝てず、鎖を千切ってまで駆け寄ってしまうくらいに。人間は『負』のものに、途轍もなく引き込まれる。その為に常識や法律、或いは相対的な善って鎖が必要だ、って具合さ」
 その理屈には、解釈してみれば納得出来た。角倉を始めとする彼たちにも些細な事を契機に「負」の誘惑があって、その上きっと良心だとか、そう言った抵抗性のものが薄かった。後天的に習得すべき善が足りていなかったとも考えられる。
「人にはあまりに強大な敵なんだ、『負』の力ってのは。お前にとっても、お前を害する相手にとっても。抗うのは難しい。だから俺も、お前には頼れと言ったし、死ぬなら止めるとも言った。死は『負』が持つ最も危険な形態だからな。死に捕えられたら、終わりなんだ」
 それは、身を以て知っていた。忘れもしない。あの日の絶望は、難しいどころか抗おうだなんて思考さえ起こらない程の深度だった。
「正直『クエスチョン』ってのは、かなり興味深い発想だよ。宮下、今回は乗ってやる」
「……。え? 協力、して貰えるんですか?」
「お前が持ち掛けたんだろうが。……人間はな、自分が受けた何かしらの『負』に対しては普通『負』の感情が生まれるし、正常な反応だ。復讐ってのも、そこに属する。なのに『クエスチョン』って名前をした復讐は、その当たり前の関係性を容易に変換してみせた。他の誰にも認識出来ない、誰にも影響を与えない概念で、あるべき姿の『負』に委ねなかった。それは」黒々としたF8サイズの絵を、手の甲で叩く。「称えられるべきだ」
 相反する感情が湧き上がる。嬉しさと同時に、心の底が痛んだ。「復讐の代行を考えたのは偶見で、明確な形を作ってくれたのは三上です。僕は、何もしていません」
「今回の主体はお前だろう。正しく継承した上で、お前の理解は三上を超えたよ。この企画の基礎、『夢』の捉え方はお前自身の成長の証でもある筈だ。自分を誇っていい時と、褒めるべき所くらいは覚えておけ、宮下。その一つが、今だ」
 思わず胸が一杯になって、声が詰まる。温かな水が隙間なく流れ込む様に、その言葉が僕の溝を埋めてくれる。
 昼過ぎの、太陽が少しだけ傾いて光が入る時間。窓を覆う暗幕の透き目から、細長く伸びる明るさが僕の足に重なる。
「だから、俺も関心がある。そこにお前たちがもう一度、迷惑なブルーストン・ウォーク事件をやらかそうって言うんだ」その表情にも声音にも、煩わしい事情を抜きに、面白がっている気配が含まれていた。「なら俺に課されたのは、さながらミンス・パイを用意する役だろう。どうだ?」


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