月のありか(掌編/短編)

 また来世で、と呟いた或る人はそのまま最後のステイジを迎え、別の誰かを思いとどまらせたのは、一四日間の中で生まれた、ひっそりと祈るような恋だった。
 明日からプログラムは次が始まる。封を開けたばかりの煙草が、これで四本もなくなった。月が割れていた。ヴェランダに来る夜は、まだ涼しい。
 口を漱ぐ事だけをして床に就く。電気は、さっき消してあった。
 
 
「結構、大きいんですね」
「ウォール・アートですからね。写真では、規模が伝わりにくいでしょう」
 水没した夜景みたいな色合いの中を、三頭身くらいのキャラクターたちが自由な格好で飛び回る。兎の耳がついたポップな少女たちは全員、外面から感情を窺わせない。興味とも、誰かを待っているとも取れる表情と、アンニュイな風合い。絶妙に揺れない均衡。
「可愛いなぁ……」
 呟いた女性の反応は、今までの他の希望者とよく似たものだった。心を緩めてくれるのはありがたいが、その由来は大抵決まっていて、少し悲しくさせる。
 八年前、安楽死は認可された。それは対象を末期の患者などに限らない、言わば合法的な自殺の幇助を意味している。ここでは、団体「月の杜」の書類による判定、診療録、裁判所の審査、その厳正に定められた条件と手順を通過し、一四日間、団体と同名の施設に入居する。途中で退去せず、職員と希望者の共同生活を終えて尚も意志の変わらない時、カプセル様の装置によって、死は実行される。俺たちは決定をしない。スウィッチは、カプセルの内部だ。
 今回受け入れた五人は、平均的な数字だった。安堵する事ではないのだが、月の杜には観測される波がある。季節を恨まなければならない様な。踏む段階の数や期間の長さ、それにシステムとして待ちは発生するから、その兼ね合いも含みはする。
「そろそろ行きましょうか、まずは施設のご案内をします」
 命を絶つ為の場所、死を否定しない場所に居て、俺たちは僅かに、希望者から受け入れて貰いやすい。却って手の届かない感覚。ここに至って初めて出会う人たち。
 一声で率いる。連れてゆく。体内に、小さな痺れをいつも抱えた。
 
 
 アトリエ、と呼ぶ部屋がある。去年から、職員用の宿舎――と言っても、同じ建物の東側に伸びた、中庭を挟んで客室と正対に位置する棟――のその片隅が、少女に明け渡された。
 月の杜の壁に、絵を描かせて欲しい。それだけだった。ふらりと目の前に現れた少女、道に片方だけが落ちているサンダルみたいな、思いがけない唐突な出会い。名前、どこから来たのかも、まるで知らない風な素振りをしたし、今でも殆どが不明なままでいる。彼女が、ここから徒歩圏内の山井戸地区に住む中学生らしい事くらいは、じきに分かった。
「おいで、偉い人に訊いてみよう」
 即時断らなかったのは処置に困ったのが半分として、そのもう半分で、悪くないな、と思ってしまったからだ。いずれにせよ、主任が首肯しなければ話は終わる。職員室まで少女を先導し、主任に提案の是非を仰いだ。
「ああ……君の絵は、サンプルと言うか、何か見られるものがあるかな?」
 少女はすぐに、リュックサックからありったけの作品を出した。小さなクロッキー帳の表紙を飾るイラストは最初、元々のデザインとしか認識しなかった――それくらい、優れていた。ペイジを捲った先の素描や水彩、想定するウォール・アートに近い絵の描かれた木板、全て並外れて、いとも容易く俺たちを裏切った。数点なら、今も朧気には覚えている。
 当時一三歳の少女に、許可は見事下りた。きっと技量だけではない。俺もこれまで目にして来た通り、画面や人物は非常に理知的で、人の心を掻き乱す感じがしなかった。端的に、相応しかったのだろう。負の感情は勿論、満面の笑みを浮かべ続けるキャラクターに、逆の作用が働き得る場所だった。それでいて実際、作品の確かな効果を実感している。
「どうして、ここに絵を描きたいなんて申し出たの?」、そう尋ねた事がある。黙り込むと言うより、思案する雰囲気の長い時間だった。そして俺は聞いた、少女のやっと見つけ出した、しゃぼん玉みたいな答えを。
「あの世を、信じていないから」
 宿舎の部屋数には余裕が与えられていた。職員が必ず泊まる訳でもなく、その持て余した一室が画材置き場になり、やがて活動拠点に変わった。ウォール・アートに限らず、彼女の小品も今や施設内の各所を彩っている。
 ただ、少女の為にはまた別の部屋を用意しなければならなくなった。
「保管室」として充てがわれたそこには、たまに鋭利になる少女の難しさを全て収めた。
 
 
「あ、船見さん。済みません……『アトリエ』は、見学可能ですか?」
「ええ、構いませんよ。展示室も兼ねていますから、作者本人が来るまでは基本的に出入り自由です。普段は施錠してあるので、一度こうしてお声掛け頂ければ」
 真っ先にウォール・アートの虜となった女性、潮風さんにつき添って、「アトリエ」の鍵を解く。少女自身は「白い小箱」と呼ぶ空間、創作物は足跡の様に、扉に近いところから始まって、壁面を順に埋めてゆく。厚いカーテンは閉め切って暗く、イーゼルに、夜の未完成。明かりを灯した。
「っ、わあ……素敵ですね、ずっと眺めてたいなぁ……。ご本人は、いつも何時頃に?」
「一五時過ぎですかね、毎日ではありませんが」
 作品群はともかく、少女の事を、公には濁してある。イレギュラーだし、きっと本来は不健全だろうから。正体を知るのは職員、最期を迎えるまでの希望者と、そして元希望者くらいのものだ。
「……誰か、来ているの?」
「ああ、今日は早いね。潮風さん、この子です」
「こんなに可愛らしいお嬢さんだったんですね。初めまして」
 こくん、と頷いたのが、少女の反応だった。
「ごめんなさいね。今、あなたの作品を見せて貰ってたの。昨日、ここに着いた瞬間から、凄く惹かれて、いいなって思って。……まるで、恋したみたい。ねえ、お名前は?」
 俺は二秒を数えた。少女は、やはり答えない。「はは、俺が居るからかな。職員も、教えて貰った事がなくて」それ自体は気にしていなかった、「名前」の事情にはもう慣れている。
「……続きはまた、明日にしますね」
「済みません。じゃあ」
「……もう、行くの?」
「え? いや、ほら……君が居る間は、君の場所だから」
 無闇な接触は避けるべきだった。まだ幼く、何よりも運営や行為とは無関係な少女と、「希望者」との接触は。これまでも極力そうしていた、わざわざ月の杜を訪ねた少女だって、何かしらの心得は持っているつもりだろうが、話は別だ。
「私、気にしないのに」
「そう決められているんだよ、ごめんね。……恐れ入りますが、潮風さんも」
「ええ。じゃあね、小さなアーティストさん」
「待って。……しおかぜ、さん?」
 引き止めた少女の、ステインド・グラスみたいな声に、曖昧な感情が読み取れた。中心をどこか不明瞭にしながら、
「……このイーゼルの上が、あなたの一つの居場所になる。いつでも来て」
 破片全てで、語り掛けた。
「あなたの為の絵を、描くから」
 
 
 宿舎側、職員専用エリアに程近く、二つの扉で隔てられた名前のない部屋。便宜的にカプセル室と呼ぶ部屋は奥まっていて、希望者の目に普段から触れる事はない。一二基の装置が円形に並び、ハッチは黒く塗り潰されているが、内側からは外の様子が透過して見える。人も居なければ電源も作動しておらず、今はとても静かだ、今は――死よりも無音だ。
 ここは波打ち際だ。一四日の猶予。希望者がプログラムを中断したなら、それが早い内であればあるだけ、先払いの費用から返金される額も多くなる。現行の方針、制度、月の杜を選んだ人たちには、他の二、三団体と比べてもまだ余地が残されている、そんな気がする。俺たちは、ディグニタスやフィリップ・ニチキの単なる信者、従者ではない。淡々と進むプロセスを否定した。最期に向けた穏やかな期間であると同時に、「死を思いとどまる権利」の為に与えられた期間でもある。
 開始から六日、週の境前後は、最終日付近と並ぶ転換点だ。しかし、誰の事態も動きそうにはなかった。面談、と言うといかにもな堅苦しい感じで好まないが、加賀美さん、続けて大友さんとのちょっとした、手応えのない対話を終えて、そろそろ夕刻を迎えるところだった。当然、希望者の意志は尊重する。安楽死団体への申請が通った時点で、残された救いは一縷にも満たない。月の杜から踵を返した後の生活も、俺たちに保証は出来ない。基本的には、受け入れたスタンスなのだ。それでも。
 鍵の返却がまだない、無線が入った。少女のアトリエだった。確認しますと告げて、宿舎の棟へ足を運ぶ。過去に何度か同じケイスはあって、予想通り、到着したアトリエに姿はない。イーゼル、潮風さんの居場所。途中で命を止められた絵画。一八時半。俺は次いで、保管室を覗いた。
「……あ」
 漏らした声で、少女が生きている事は反射的に悟った。それ以外、思考は、刹那止まったままだった。
 少女の横たわる床は、夥しいくらい真っ赤に染まっていた。様相は血の海そのもの、少女の纏う白いシャツとリネンのパンツ、頭髪から全身に至るまでが、生々しく、惨憺たる光景を演出した。
「な……に、して」
 お構いなく、少女は顔を天井に向け直す。冷静になってみれば、ぶちまけられたのは恐らくウォール・アート用の赤い塗料だろう。少女の傍らにはカッターの刃が三枚と、色の暴力に侵された、差出人不明の封筒。理解する、施設に宛てられた脅迫の道具。そしてぽつりと置かれた、キャプション・ボード。小さなパネルに作品名や作者、解説、画材などの情報を示す、そこにはただそれだけが記されていた――「あなたからの贈りもの:三人分」。
「世界には、死にたい人と、手助けする人、そして刃物を送りつける人が居て」少女は呟く。俺への言葉でないのは、確からしかった。「本当に死ぬのは、誰?」
 少女の死は疑似的である筈なのに、初めて覚える戦慄だった。空疎な悪夢の中に取り込まれて、俺も、特別に隔てられた作品群も、どこか鈍い危うさをまざまざと帯びた。
「死ぬのって、怖い。怖いね」
 冷たく正気を保ったのは、他ならぬ少女だけだった。それが何よりも、後ろ暗く光った。
 翌日、少女の髪はばっさりと短くなっていた。
 
 
 月の杜に限らないのだろうが、抗議や不穏な文書はよく届く。いつくすねたのか、保管室に収められた作品の中に「アタック・ザ・ガス・ステイション!」と言うものがあった。月の杜――皮肉な表現をすれば「ガス・ステイション」に送られた、脅迫が目的の手紙を切っては札束の様に纏め、アタッシェ・ケイスに無雑作に放り込む。暇潰しにガソリンスタンドを襲撃する筋書きの、随分と古い同名映画から着想を得た制作。その他絵画、写真、コラージュ、そしてあの、三人分の血溜まり。少女は身の内に何かを秘めていた。
「筆がよく乗るの。私の絵も、あなたに恋をしたみたい」
 素敵ね、潮風さんは笑った。少女がアトリエを訪れて、俺たちが退出するまでの、その僅かな逢瀬。祈りはもう限られていた。
 一つの作品を仕上げるのには、異例の早さだった。青、白、赤を中心とした印象派のタッチで描かれる、海と、こちらへ飛び込んで来る光。足先を浸した左側の小さな人物は服が強くはためいて、帽子が風に奪われてゆく、画面の反対へ。決して粗雑ではないし、全くの不案内だが、単に油彩画の工程を終えるまでの期間としても驚異的だろう。少女の、照らされた側面から生まれた制作。一〇日目が、夜に差し掛かっていた。
「完成も近そうだね。でもほら、今日はもうそろそろ帰らないと」
「……」
 思い詰めた様な瞳とは裏腹に、少女は素直だった。荷物を纏めて、あっさり引き下がる。通用門まで送った。遠くはまだ明るい。坂を下る自転車が道なりに曲がって、少女が木陰の先へ消える。
 ロビーの一つに戻ると、大きなスクリーンに野球中継が映っている。この時間、最年長の古野さんは、贔屓が同じ年下の丸栖さんを伴ってよくそうした。
「勝っているみたいですね」
「まだ序盤だぁ、全然分からんよ。ま、このまま上手くやって欲しいがね」
「何かお持ちしましょうか?」
「お気遣いなく、ありがとうよ。……あんた、船見さん、だったか」
「ええ、どうされました?」
 ゴロが打ち取られて、画面は三回までのスコアを表示する。
「……不思議なもんだね。俺ぁ、死にに来たんだ。ところがどうだい、野球見て一喜一憂したり、朝には新聞なんか読んだりしてさ。変わんねえんだよ。何も。そりゃ、どえらいサーヴィス受けて、居心地よくして貰ってんだが、……こう言っちゃおかしな話、何しに来たんだっけなって、分からなくなっちまう」
「……こう言っちゃ、じゃないですけど、料金は頂いていますから。それに、些細な日常への愛着からでも、やめる方は居ます。……妙な具合で、現実が入り込むんですよね。引き止められた様な気のする方、ここまで来て世界と繋がっている事を嫌う方、様々です」
「だろうなぁ。……でも、俺ぁさ。やっぱ、やめねえと思うんだ」
「そうですか。……いずれにせよ、終わりまでを含めて、それが『生き方』ですから。私たちはただ、皆さんの選んだ『生き方』に対して、尽くすつもりでいるんです」
「あんたたちは立派だよ。……皮肉じゃねえぞ。よかったと思ってんだ。当たり前ぇだが初めてだからな、他とは比べられねえが――最期がここで、本当によかったよ」
 嘘偽りでは、ない。だが、真に報われる瞬間でもない、それは確かだった。何度も、何度も立ち会った。一四日を共に過ごした、月の杜に託してくれた人たちの幕引き。一縷にも満たない救いを無責任に信じて、心の底にエゴを隠して。
 夕飯が出来上がった旨の連絡を受けて、ロビーの二人に運ぶ。歓声が上がった。若い選手の追加点が、束の間を賑わせていた。
 
 
「大変、だったよね。ありがとう」
 六月を迎えたアトリエで、少女と潮風さんを引き合わせる。見込んだ通り、海景は今日で筆を離れた。煌びやかな色たちは、切実さを持った。押し返す様な光だ。
「……改めて、とても素敵だなって思う。制作の途中は知ってたけど、完成に近づく度、釘づけになっちゃってね。……本当だよ? 一時間もずっと、眺めてた事だってあるの」
「そう言って貰えると、嬉しい。きっと、この絵も」
「どこかに、飾る予定?」
「……ううん、あげる。あなたに」
「そっか、ありがとう。……私、あなたと、あなたの絵に出会えてよかった」
 潮風さんの言葉、愛情の様な笑顔に、却って俺は感じ取ってしまった。……彼女もだ。彼女も、やめないだろう。願っていた。この浅瀬から引き返してくれる事。少女の絵はそこに立った時、多分、どちらにも読める。自らが選択する死の間際に居て、潮風さんは、光の向こう側を望んだ。
「……引き取りに来て。あなたがここを離れる時。それまでは、私の手元に置いておくから」
 少女の姿、俺は幻視した。華奢な指先で幾つも紡がれた、あの、揺れない均衡。重なって映る、絵画の住人。考えてみれば、とてもよく似ていたのだ。少女が不在だったとしても、いつだって片割れたちは月の杜を見詰めていた。
 脳裏を赤い床が掠める。隣室、冷え切った足元の狂気。
 潮風さんは、それを知らない。
 
 
 けたたましく警報はがなり立てる。火が起こった。最終日前夜の全館に渡って、事態の緊急が知らされた。「焦らずに、ダイニング脇の非常口から避難して下さい! まだこちら側には回って来ていませんが、安全の為、自室には戻らない様お願いします!」消し止める手はもう間に合わない。初期の段階をとうに超えていた。職員と希望者、前庭には一人の欠けもなく無事に逃げ集まって、後はもう消防の到着を待つばかりだ。
「……主任、皆さんをお願いします」
 月下に宿舎の棟は燃える。少女がどこにも見えなかった。アトリエにも、火元となった保管室にも。出入口に自転車だけが取り残されている。カプセル室は施錠してあって、少女の他の行く宛を知らなかった。
 ただ、大きな確信だけがあった。少女の居場所は炎の中ではない、と同時に、危険が及び得る事のない屋外。俺たちの居る周囲には確認出来ず、それでいて敷地内にまだ残っている。
 足を速めた。西側から回り込む、建物で隔てられた向こう。目で、声で少女を探す。中庭のベンチ。木々の間。違っていた。更に先へ進んで、焼け始めようとする東端を曲がった時、俺は正解に出会う。大樹の一本に背を預けて、少女は座り込んでいた。災いを目の前に映していた。両腕に、あの絵を抱えながら。
「ああよかった、立てる? ここも危ないから、行こう」
「……、あ」
 少女がゆっくりと視線を合わせる。……おかしい。その様子が保管室の作りものと一致しない、感触が異なる。反応は鈍く、相貌にも明瞭さが失われている。
 すぐに疑った。単なる疲労や睡魔とは考えにくい。血色の限りでは、一酸化炭素中毒ではなさそうに思える。呼吸、脈拍、外的な徴候。持病などまで把握していないが、引っ掛かりが強く残る。
「君――何か、服んだか?」
「……知ら、ない」
 声は弱く、短い言葉すら片々になりながら否定して、それだけでもう、察してしまえる材料が揃っていた。火気とは無縁である筈の保管室、潮風さんに贈った絵だけがこうして難を逃れている事、そして――瞳。来ているのかも知れないが、重ねて救急にも連絡する。
 ……絵具や顔料には、非常に高い毒性を有するものがある。カドミウム・レッドなどはその最たる例だ。出ている症状と照らし合わせて、そうと言えるかは訝しい。だが少なくとも、彼女の入手し得る何かが、今、重篤な状態を引き起こしている。
「……その子、どうしたんですか……?」
 肩を衝かれた様だった。体は反射的に振り返る、そこに潮風さんの、不安と恐怖に満ちた顔がある。
「まさか、絵を持ち出そうとして、」
「いえ、それは違う、のですが……」
「……しお、かぜ……ひきと、に、きたの? ……」
 いつ、からだ。やっとの事で発した、千切れそうなメッセイジ。言動、表情、少女はいつから、この結末を見つけてしまっていたのだろう。途端に俺の手が、どろりと重くなる。本当に過ちを犯してしまったのは、誰だったのだろう。
 絵の裏、懐辺りをまさぐる仕草で、少女は何かを取り出した――封筒。悪意も汚れもない、ただ真っ白くある封筒。それが意識の最後だった。嘘みたいに希薄になった。
「船見さん、助かりますよね? 助かるんですよね……?」
「……救急は呼んであります。まずは、この子を運びましょう」
 少女の軽さ。門の近くまで少女の体を移動させ、主任に状況を伝える。今この場でしてあげられる処置は殆どない、その中で最善を尽くした。
 消火活動の始まる傍ら、少女のつき添いには主任が手を挙げた。隊員に説明すべき範囲の事柄に関して、俺も主任も持っている情報量は大差なかった。「その重責を負う役目は私にあるよ、それに」彼は手紙を指して言った。「君にも役目があるだろう」
 封を切る時、震えた。爪の先が白くなるくらい力を込める、より前に、隣に立つ潮風さんの深い息づかいが鼓膜に触れる。
「……私が、先に読んでもいいですか」
 互いに意を決した。糊づけが剥がされる時の、ささやかな抵抗、音。その中身を手渡す。彼女の手でそれは静かに開かれ、張り詰めた沈黙が夜の隅を覆った。彼女の双眸は揺らめき続けた。その奥に、少女の海が流れ込んでいた。
「……、名前」
「え、?」
「名前、教えてくれました。いろはちゃん、って言うんですね。……でもあの子は、私の、本当の名前を……っ!」
 嗚咽に途切れて、言葉の先はもうなかった。
 俺は、慣れてしまっていた。希望者の中には「名前」を嫌う人も多く、月の杜では各々の自称に任せている。少女が名前を明かさない事も、潮風が、彼女の本名でない事も。あるがままに受け入れた。
 ただこの瞬間、彼女の中で、きっと均衡が崩れてしまった。同じ近さへ歩み寄ったつもりの少女、動けないまま、時を止められてしまった潮風さん。門柱に立て掛けた絵は、まだ炎に煌いている。
「無事を、祈りましょう」
 月の杜と言う場所に居て、普段、誰かに掛ける事のない言葉。
 ひたすらに願う。遠くへ呟く。
 闇夜に融けた。
 生きてくれ。
 
     x x x
 
 恋とは何なのか、私には分からないでいました。
 自分でも、驚いています。こんなに筆が進んだ事は、今までありませんでした。同時に、とても悩んだのです。その日より前に完成させてしまって、本当にいいのかを。
 そうした時と、そうしなかった時。結ばれなければならない恋でした。私は最後の色を乗せて、自分の選択に決着をつけました。
 題は最初から、「潮風」にするつもりでいました。この絵の居場所、恋人の名前。潮風と言うその人もまた、この絵が居場所になってくれたらいい。特別な事は何もない、ただ、それだけが心にありました。
 誰かにとっての幸せは、私には計れません。恋は人を幸せにもするし、破滅に導きもする。私が見つけたのは、単に物語の一つと言うだけでした。
「月が綺麗ですね」。アイ・ラヴ・ユーを訳したものとして、有名なフレイズです。もしも、恋とは狂気なのだとしたら、私にも分かる気がします。月は魔物、恋に取り憑かれて、狂えるくらい溺れてしまえたら。
 これはあくまで、物語の一つ。続きは、大きな物語の中で紡がれるでしょう。
 私は、私のした恋に尽くします。
 
 六月二日 志築いろは
 
 
 P.S.
 
 炎がそこに始まっていました。外に出て、見上げる様な高さになると、私はやっと気づいたのです。
 空の深さ。魔性の獣。
 月は今日も綺麗です。


 あなたには「弾けて消えてしまう前に」で始まり、「全ての出会いには意味があるらしい」がどこかに入って、「また来世で」で終わる物語を書いて欲しいです。

 あなたには「ひっそりと祈るような恋だった」で始まり、「月は今日も綺麗です」がどこかに入って、「時計の針は止まらない」で終わる物語を書いて欲しいです。

#書き出しと終わり
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