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生きて、いたくても――Nov#20

「えぇっ、塗っちゃうのそれ!」
 当然の反応、と言うよりは、反射的な驚きだった。トランプをシャッフルするかの様な速さと鮮やかさで、見る間に外側を覆っていたデザインが、色の向こうに押し込められて行く。
「うん、だからこそ、敢えてこう言うのを買って来て貰ったの。折角選んで来てくれたものだから、二人には悪い気がするけどね。ごめんなさい」
 僕たちが選定した紙コップは今、定位置に座る三上の手と筆によって、薄水色に塗り替えられていた。一閃し、折り返しては振り払い、弧を描いては層を成して行く。色を重ねているのに、どちらかと言えばまるで表面を削っているみたいな手際だった。
「あくまで、白いコップじゃ駄目だった……って事で、いいんだよね」
「そうですね、最初からこの予定でしたから。伏せてたのも謝っておこうかな」
「ううん、理由があるんだろうから。聞かせて貰えないかな」
「理由って言っても、まあ、絶対条件ではないんですけど。先に言っちゃうよりも伏せてた方が、よりちゃんと、選んでくれる気がして」
 態々手の込んだものを選んだのは、「浄化作用入り紙コップの死、或いは新たなレゾンデートル」と言う、第一回「クエスチョン」のタイトルにも絡む要素だった。一端を担っていると表現しても間違いではない。
 まず文字通り、その表面に施された意匠を塗り潰す事で紙コップは一つの「死」を迎えると共に、新たに描かれた別のイメイジ、「レゾンデートル」を手に入れる。過程を知らなければ誰にも分からないけれど、それはパフォーマー側の三上にとって重要な拘りであり、また「クエスチョン」に於ける隠された意味や法則と同じで、制作陣だけの楽しみでもある。
「これも私のポリシーに関わる、つまり『既存』の破壊の一環って言うのもありますけど、同じ大量生産品でも、無地とか、いかにも生命感に欠けたものは使いたくなくて。それじゃ、私たちがやろうとしてる事のエネルギーを、受け止め切れないと思ったから」
 三上は、尚も手を動かし続ける。一つ塗り終わるとすぐ次に取り掛かり、ちょっと話している隙にも、妙なオブジェを続々と机上に整えて行く。
「空だよね? この柄。そこって何か意味あるの?」
「そうだなぁ……一つは、分かりやすい、って事。『新たなレゾンデートル』として込めるイメイジを、空ならすぐに伝えられるから、かな」
 やや荒めの筆致で一五個ものカップを素早く塗り終え、筆先の色を変える。次の空は、盛夏の只中みたいな、今までよりも濃く強い水色になった。
 パッと見でも明確な判断を与えられるもの、と言う条件を三上は設定し、更にコップの外周を、どの角度から見ても途切れのない、一続きのループにしようと考えていた。そうなると、空は好適の素材だ。
「デザインの上からデザイン的なものを重ねる気はなかったし、それじゃ既存の破壊にも反するから。それで、描くのが人物とか植物とかだと、今度は画面全体が塗り潰せないでしょ? コップの地肌が残ってたら、『死』も『レゾンデートル』も完全じゃなくて、人物や植物『以外』の色や背景が必要になると、今度はそれも一種デザイン的になっちゃうし」
 でも、と偶見が口を挟む。「空だってよくあるデザインじゃない?」
「ふふ、そうかも知れないね。だけど、一応、自信はあるよ」
 確かに偶見の言う事自体は尤もだけれど、紙コップに巻きつけられた三上の空は断固として油彩画の印象を保っていた。
「うわぁ……愚問でした。怖い怖い」
「褒め言葉だと思って、貰っておくね。……もう一つは、時間や天候によって、複数の顔がある事。それでいて、空は空って分かるでしょ? これは『クエスチョン』自体に関わって来るから、空以上の適任はなかった、って感じかな」
「って言うと?」
「……変な事訊きますけど、宮下君」彼女は五つのシチュエイションを挙げた。夜明け、朝、昼、夕暮れ、そして夜。「どれが一番嫌いですか?」
「……『嫌い』? 何だか、難しい質問だけど」
「夜が嫌い、は分からなくもないけど、昼とか嫌いな人なんて居るの?」
「さあ? 人それぞれだと思うよ。だから宮下君も、一つ決めて下さい。難癖みたいな理由で構いませんから」
「……だとすれば」決して僕は夜が嫌いじゃない。安息の時間ですらある。そう、眠っていられる間は、幸せだ。だから、僕が嫌いだとすれば、その夜を終わらせて、新しい一日を始めようとする、「夜明け、かな」
「夜明け、ですね。分かりました」
 色違いになったコップの二個目を置いて、三上が話を続ける。
「もうお察しでしょうけど、こうして、今言った五つの顔を、描く予定です。一人当たり五種類五個ずつで、それが三人分の七五個。その中で、私と珠ちゃんは完全なランダムにしますけど、宮下君は、復讐したい相手に関してだけ、『夜明け』の紙コップを使って下さい。それ以外は私たちと一緒で、ランダムにして」
「成る程、それが、唯一の『法則』になる訳だ」
 僕が、限定した相手に、憎むべきこの夜明けを使う。それによって、僕たちの間でしか通用しない、だけど僕たちの中でなら成立する復讐を作り上げた。
「はい、端から見ても絶対に分からない、パフォーマーの為だけにある『目的』です」
 そう言いながら立ち上がった三上は、部屋の隅に置いてあった袋を手にして戻って来ると、そこから、妙な装置を取り出して見せた。
「うわ、何それ!」
「カップ・ディスペンサーって言うんだけどね」説明するなり、まだ着色していないコップを円筒の上部から補充して、前面についたボタンを押す。すると、下で構えていた手の中に、そのコップが落ちた。「これを使います」
「か……」偶見が小さく呟くのが聞こえた。「格好いい……」聞かなかった事にした。
「それ、三本用意してるんだよね。高くはなかった?」
「支出は多いですけど、絵で貰った賞金なんかもありますから。賞金額として見ると全然大きくはなくても、私には持て余すくらいの。だから、痛い出費ではなかったかな。それに、芸術で手に入れたお金です。芸術の為に使えるなら本望なくらい」
 かなり本格的に見えて、意外と二〇〇〇円を少し上回る程だと言う。それも人数分準備すれば決して安い値段ではないけれど、見せ掛けはずっとそれ以上に思えた。
「それで? これ使って何するの?」
 これだけの道具に、目的を達成する為に設定された「夜明け」。
 勿体振る様に伏せられていた、復讐の実体。
「何、って言うと……そうだなぁ、一言で纏めれば」
 そうして、実に簡潔な答えを提示した。「投げつけるんだよ。このコップを」

 図工みたいな時間は、久し振りだ。
 ハート。星。或いは、十字。ベイシックな正方形をメインに、様々な形の紙吹雪を作って行く。この辺りを基本として七、八割程、時々イレギュラーな形状を織り交ぜながら。その途中からはアイディア勝負みたいになって、普遍的、且つ、だからこその意外性があって、一見しただけで何かが分かるものを全員で作り始めた。クリスマス・トゥリー。稲妻。北海道。これは絶対に偶見だ。負けた気がする。
 出来上がったものを、大雑把な分配で紙コップに投入する。
 皆が気軽に集合出来て、憚らずに紙を切り散らかす事が出来る。屋上は条件を満たすのに格好だった。三上にその存在を教えて、僕たちは放課後に集まった。
 昼休みの短い時間だけで、全ての紙コップに「新たなレゾンデートル」として込められたのは、常に新しい事を求める、と言っていた彼女にしては、純粋で明瞭な風景だった。それでも充分に技量が窺えて、彼女の実力はこの基礎に裏打ちされているのだろうと思ったけれど、三上の狙いはまた違う所にあって、
「この、実にテンプレイトな風景がどう扱われるのかも、私の楽しみですね。突貫とは言え、綺麗に描いた心算ですけど、それが全く評価されず、ごみ箱に捨てられたり、踏み潰されたりするのでも、私の意に適いますから」
 と、ポリシーの中に潜む、反芸術的な毒気も垣間見えた。そう言えばこのコップを塗っていた時に、一つの話題として、周囲に並んだ作品についての意見を交わした。モネの絵を逆さに模写した「森の入り口、朝」を「上下逆さにしても風景が成立すると言う、曖昧な画面の不完全性を剔抉する快作」と絶賛していた三上。……嫌いなのだろうか。モネ。
 屋上と言っても「外」では風防の役目を果たすものがないから、僕たちは出入口の反対側、塔屋の倉庫に入った。施錠は階段側の扉にしてあるからか、倉庫の方には鍵が掛かっていないのを知っていた。とは言え開けてみた事はあっても、じっくりと内部を見た事はない。
「うわっ、埃っぽい。ここで作業するの?」
「マスクでも、買って来ようか? 少し、時間が掛かるけど」
「大丈夫、あたしの部屋よりは綺麗」嫌な事を言わないで欲しい。
 中は狭くて、よく分からない箱などが積まれている、何の変哲もない倉庫然とした倉庫だった。流石にこんな所でもちゃんと電気は点くらしく、作業自体に支障はない。換気と採光でドアーは開けておいたけれど。
 やがて、コップの底部全てに彩りが撒き散らされた。そこからは偶見がランダムにコップを選び、僕が塩を二振り程して、三上がディスペンサーへと落とし入れる。塩は、清め――浄化作用のメタファーだ。対象を、そして復讐と言う邪念を正常化する願い。そのリレイで二本を満たし、残りの一本に取り掛かろうとした所で、三上が制止する。
「この続きは、当日にしましょう。コップは、ここに置いといて」
「え、何で?」
「最後の一本、宮下君の分は……変な使い方ですけど、画竜点睛の故事で言えば、これは目の部分だから。この活動に命を吹き込むのは、直前がベストかな、って」
「……うん、確かに、僕もその方がいい。当日の意気も、変わって来ると思うし」
 残されたコップをそれぞれのグループに分けると、余った色紙で蓋をした。ディスペンサーも一緒に、ここで保管しておく。円筒部には蓋がついているから、埃の入る心配はない。
「これで準備完了ですね。後は決行を待つだけです」
「あー、楽しみになって来た。ねえこれ、動作確認とかしなくていい?」
「ふふ、もう。いじりたいだけでしょ。必要ありません」
 意外と長く作業していたらしく、外は夕焼けの効果を演出する前段階だった。空の一部が、少しだけ色調を変えている。自然の明るさに広い空間。息苦しい倉庫を出て、清気の中で思い切り呼吸する。
「お疲れ様でした。各自、英気を養っておいて下さい。私は少しだけ、部に戻ります」
「おっけー、お疲れ様」
「お疲れ様。……偶見はもう帰る?」
「うん、帰るよ。用事とかもないし」
「それじゃあ、その」
 一瞬、声のチューニングが乱れる。慌てて整えると、言葉を押し出した。
「……帰ろう、一緒に」
 少しきょとんとした偶見の表情が、ゆっくりと笑顔に変わって行く。「あたしは最初から、そのつもりだったけど」
「……だとしても、だよ」
「いいよ、帰ろう」
 荷物を持つ。そっと屋上を出ると、ドアーを閉めた。


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