夏のスリップ(短編・2/2)

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     九月二日・断編
 
 つぐははいつも通り券売機の前で待っていた。車窓から、大判の本をしまう様子が見える。どうやら最近は、シンギュラリティーについて、が探究のテーマらしい。分野で言えば、理系の世界に惹かれる彼女だ。私を運ぶバスはつぐはにも分かっていた。降車した私にわざわざ駆け寄る事、その好ましさが私の中で瞬いている。
「先輩、おはようございますっ」
「おはよう、つぐは」
 学校へ向かう間、記憶をなぞり合った。夏休みに入る前、入ってから。プラネタリウムや水族館に行った日と全く同じ過程を、つぐは一人で再び繰り返した事。初耳だった。いい経験でした、何か、気づいたら泣いちゃってたんですけど。つぐはが照れた様な表情をするから、私は無意識に撫でてしまっていた。細くて柔らかい、指に少しだけ、官能を教える髪の手触り。
「えへへ、毛繕いですか?」
「ロマンティックな方に、解釈していいよ」
「はっずかし。先輩、女たらしですね」
 つぐはが嬉しそうに笑う。小さな夢の一つ叶った世界で、電車は過去の方向へ景色を送り続ける。これから幾つの季節を、共に過ごせるのだろう。二人分の季節を。
 永遠がなくたっていい。
 夢みたいなこの幸せだけが、褪せて、失われないのなら。
 
 
     九月二日・遺編
 
「……まつる先輩」
 つぐはの失われた部室に、まだ残っている夏の生命感がひたすら厭わしかった。全ては起こり終えた事実だった。今も捜索は続いているし、取り残された白黒の西瓜が目に映れば、私を簡単に打ちのめす。受け入れられなかった、時の止まったつぐはの墓碑みたいに思えて。何より彼女が居た証、脆いサインを、この手は消してしまえないから。
「うん。……うちも考え、纏めて来たさかい」
 伝えてあった。最後のメッセイジ、円の重なりを予感していたつぐはの、望み。
「本当だと、思いますか」
「うちはそうや思うとるよ。と言うより、その前提で話させて貰うんやけど、」天井を仰ぐ。まつる先輩の喉が、何かそれとしてもっと、生きものめいて来る。「つぐはちゃんはもう、この次元にはおれへん。現実的にも、そやろ?」
「……消えてしまったのは確かです、けど」
「これが事件か何かやったら、初めっからうちたちの領分やない。そやから今は一旦飲み込んでもろて、『うちたち』の話を続けるよ。……つぐはちゃんは消えてしもた。それが表すんはつまり、ほんまに四次元へ行った言う事。そして、あの子がおったこの次元には戻らんかった言う事」
 まつる先輩の双眸は、本当に真剣だった。馬鹿々々しい、誰からしたってそう見えるだろうし、私だってそう思いたい。でもそれなら、妄言だけを残してつぐはが失踪した現況だって、充分に馬鹿みたいなんだ。例え先輩の話が虚構にまみれた前提の、到底信じられないものだとしても、私はつぐはを信じなければいけない。
「……疑るやろ? こんなむちゃくちゃなん聞かされて」
 予防線とか、その類とは違う、見透かした様な声色をしていた。「……いや、その、」
「ええよ。その内分かる筈やから、喋らしてな。……当然やけど、あの子を見つけるには、四次元空間で探さないかんね」
「――『連続性』の軸を加えた世界、ですか」
「ううん、そこやないねん。あの子が知ったんはi軸とちゃう――j軸なんよ」
「j、軸……? 何ですか、それ、どう言う意味ですか」
「あの子がおる場所の四次元目の軸は、『連続性』ではあり得へんのよ。……ややこい話するけど、準備はええ?」
 互いが一息を置く。そしてまつる先輩が、言葉を始めた。
「次元の形は真球でも、立方体でも構えへんけど……三次元から見た三次元は、幅、高さ、奥行きの三つやね。ほんなら、『一次元から見た一次元』て、何や思う?」
「一次元、から?」
「そう。それは『奥行き』。例えば、目ぇついとる方を前として、横歩きしてみよか。その進行方向にある軸は、認識でけへんやろ? 『無限の移動』は進行方向なんよ。そやから、答えは奥行き言う訳。……そこで、『二次元から見た一次元』は、どないなっとう?」
 頭は既に狂い出していた。その世界の、想像の手段が掴めない。
「……一遍戻そか。うちたち、『三次元から見た二次元』て、高さと幅やね? 奥行きが欠けとう。ほんなら、『二次元から見た二次元』はどないやろか。自分が、四角形の中におる点や思うてみて。……進行方向の奥行きと、その先に高さが見えへん?」
「そうです、ね。そこまでは追いつきました」
「うん、そしたらまた訊くよ。『二次元から見た一次元』は?」
「……高さ、ですか?」
「その通りや、ええよ。前向いても縦の線、下向いても上向いても、縦の線。高さと捉える事がでけそうやね」
 ここまでを纏めよか、冷却期間を設ける様にまつる先輩は話を中断して、ホワイトボードに経過を書き込んだ。
 
 二次元から見た一次元は 高さ
 三次元から見た二次元は 高さ・幅
 四次元から見た三次元は 高さ・幅・?
 
 一次元から見た一次元は 奥行き
 二次元から見た二次元は 奥行き・高さ
 三次元から見た三次元は 奥行き・高さ・幅 
 四次元から見た四次元は 奥行き・高さ・幅・?
 
「……今メモしたみたいに、『自分の次元を見る』時、奥行きは常に存在しとって、逆に『或る次元から一つ下の次元を見る』時、奥行きは常に欠けてまうんや。次元が変わって、視点も変わるからやね。奥行きは一つ上の次元から、別の軸に見える。次元の法則性なんよ」
「それで、j軸に当たる『?』の正体は、」
「高さと幅の二次元に、『奥行きに見える軸』を足して三次元にしないかんね。その軸を奥の方へ伸ばすとして……歪めて言うたら、『縦の線』、になるんは、分かる?」
「分かります。……もしかしてこれも、法則ですか」
「そや、よう気づいたね。高さ、幅、と来たら、少し強引やけど、次も高さみたいな線になるんよ。そこがちゃんと交互になっとう、れっきとした法則なんやね。……x軸方向と同じi軸が『連続性』、時間的空間の幅やとしたら、y軸方向、時間的空間の高さは――『時間が同じ別の世界』」
 そこが、つぐはの居場所。
「所謂パラレル・ワールド的な、『可能性』の軸なんや」
 
 
     九月二日・改編
 
 ざわざわと怖ろしい心音だった。三次元と言う教室さえ途端に不可解な空間に思えて、全てが遠くなる。汗が頬を伝った。感覚が鋭い、私が私へと集中している。拡大、縮小。睫毛を風が掠めて、その正体の不明さに怯えた。
 可能性。パラレル・ワールド。未来予知みたいに言い当てて、本当にその次元へと飲み込まれた彼女。
「……じゃあつぐはは今、『別のつぐは』に?」
 もし、私の存在しない世界に飛んでしまっていたら。この主観、あまねのパラレルでは届かないところへ行ってしまったのなら。
「ううん、そうやない。空間と世界は別ものやからね。今おるこの部屋も、概念的には二次元空間を無限に内包した三次元やけど、その一個々々に、わざわざ二次元世界が挟まっとう訳やないやろ? 四次元空間も同じ、三次元空間を無限に内包しとうだけで、うちたちの生きとう様な三次元世界が、びっしり詰まったりはしてへんよ。『可能性』は向こう、四次元におって初めて通じる概念やしね」
「……余計、分からなくなりました。それなら、私たちの生きる『三次元世界』って、何なんですか」
「うーん、そやねぇ。ざっくり端折るから、語弊があるかも分からんけど……簡潔には、『作品』かな」
「作、品……私たちが……?」
「おさらい、しよか」優しい、声だった。果物が腐ってしまった事を、どうしてかあなたが詫びる様な切なさの。「次元を超越する三つのもの、あまねちゃん、前に挙げとったやろ。高さに対する重力、連続性に対する時間と、もう一つ。何やった?」
「……光、です」
「うん、そやんね。……三次元には、三次元のものしかあれへん。どんなものにも、縦、横、長さが必ずある。でも、唯一の例外が光なんよ。いかなる三次元の物体でも影は二次元やし、光の生み出す絵や映像もそれ自体は二次元や、分かるよね?」
 それは、理解する。現実にはスクリーンや液晶、投影するものが厚みを持つだけで、光は確実に、次元を超越している。
「光には、次元を一つ下げる力があるんやね。つまり二次元世界は、三次元の光の中だけに存在し得るんよ。……これが、置き換えられるとしたら?」
「……先輩、まさか、」
「そう。――『三次元世界』は、『四次元の光の中』で出来とう、作品なんよ」
 瞬間、全身が凍りついた。認められない、本能が拒否反応を起こす。私が、三次元世界の全ての存在が、作品、キャラクターであり、虚構。私の生きた足跡、自意識、今も感じるこの焦りや衝動や喉の渇きですら、高次で仕組まれた、仮想。
「心配せんでええよ、うちたちの命は本物や。保証したるよ。そやからちゃんと、つぐはちゃんを見つけたらな。あんたの、意志で」
「でも、知ったところでどうやって、」
「……ついでにもう一つ。光で出来る絵とか映像って、ほんまは概念的に二次元やね。でも実際には、それを映すものの厚みが三次元にするんよ。逆に言うたら、光で出来た二次元世界のものは、少しの厚みを持たせるだけで三次元になってくれる。……置き換えると、『三次元世界のものは、少しの可能性を持たせるだけで四次元になる』。それがつぐはちゃんに起こった事――そして、これからあんたにも起こる事」
 彼女が、笑う。手を振るみたいに。上手なお別れみたいに。
 感じていた。
 私にはもう、なす術もなく、
 円が、
 重なる。
「――後は、うちに任しとき」
 
 ――はっきりと、彼女はこちらに向かって語り掛けた。
 
 
     xyzj・新編
 
 空間はどこまでも広がっていた。自分の状態。認識が一変する。
 可能性の軸が加えられた世界、この四次元に、三次元のままでは存在出来ない。三次元生命体としての見慣れた身躯を失って、新たに得た四次元集合体の私。戸惑いはしたものの、順応は早かった。「可能性」が加わった、と言うのは、私そのものが概念を取り入れた事に他ならない。
 想像したよりも遥かに寂しい世界だった。四次元世界であるからには、相応の文明が広がっていて、相応の生活が点在しているものだと予期していたのに。滅亡の雰囲気とは異なる、創世前の様な印象。この世界の自然や、時折、人工的に見える物体にも出会ったけれど、未開拓の静けさが殆ど全貌だった。
 四次元集合体に姿を変えたつぐはが、私に分かるだろうか。不安がただの杞憂である事を、その声が教えてくれていた。
 ――光が、助けてくれるよ。四次元で、影は三次元になるさかい。「可能性」の軸はあの子の影を、あの子と分からん歪め方はせえへんよ。
 それは、希望の象徴。私は動いた、不思議な呼吸を繰り返しながら。あまねの相似みたいな影が、確かに私の歩調でついて来ていた。知らない雨が暫く続くと、つぐはを思い出す。グラスの雨が音の数倍の速さで、水平方向に降る惑星の話。めちゃくちゃですよね。うん、めちゃくちゃだね。そう言えば音は、次元を超えられないのだろうか。光は今でも、一定の速度だろうか。取り止めのない一人切りの思索。考えてみればつぐはと出会ってから、半年も経っていなかった。どうしてこんなに、好きなのだろう。マニアックな事で語り合って、そうでない事は、もっと沢山あった。夏の部室が懐かしくなる。どれくらいの時間が経って、どれくらい、強制的な時間の力を浴びたのかは、もう認識していなかった。
 ――つぐは。
 やがて巡り会う、それはやや傾いた角度で伸びる、記憶を擽る影だった。
 ――あまね先輩、ですか?
 ――多分ね。
 互いの理解が届いて、幸せが物質じゃなくてよかったと思う。映らないないものは映らないままで、そこにあるあなたに何から話そう。伝えるべき、言葉の後で。
 ――見つけたよ。
 私たちの、果てしない空間で。
 
 
 
     xyzijk・再編
 
 奇跡を目の当たりにしていた。可変性も連続性も奥行きもない、実に三つも下の小さな次元で、私は驚くべき世界、可能性の一つに偶然辿り着いた。
 生命体が誕生する確率は、一〇の四万乗分の一とも言われる。無限の可変性、連続性、可能性を孕む五次元世界でさえ未だ発見されなかった奇跡、その概算さえ合致していた。六次元思念体と、自らが手本である三次元生命体とで。
 既に時間の影響を多少受けてはいたけれど、無事に続いていた事を幸運に思う。確率に愛された世界は、あまりにも未知で、侮りがたく、何よりも価値があった。その狭い狭い穴を覗き見る時、私の主観はあまねと言う少女に委ねられた。もしも六次元から三次元の遠い隔たり、中でも一〇の四万乗分の一の世界へ真っすぐ降りたなら、少女あまねはその時点での可能性として、恐らく私のなり得た仮想なのだろう。
 因果だったのかも知れない。あまねの主観に登場した少女つぐはは、私の好感を徐々に、それでいて一挙に攫ってみせた。私にとっても素晴らしい、「生きる」意味に満ちた世界で、少女つぐははまっしぐらに生命を体現していた。表情のある美しさ。声の不自由なたおやかさ。輝きの全てが、次元を超えて私へと届く。少女つぐは、それは確かな光だった。だから、物語に起きた異変は約束めいていた。
 私の思慕は、少女あまねを影響し過ぎてしまっただろうか。私の関与が、少女つぐはに事故を与えてしまっただろうか。そしてこれ程までの収束を、私は未だ信じ切れていない。
 ――後は、うちに任しとき。
 はっきりと、こちらに向かって語り掛けていた。あの時少女まつるは私の、六次元思念体のやり方で、直接、こちらに。
 度を超えた真理に触れていて、裏に佇む私を見抜き、何より、少女あまねに可能性をつけ足してみせた。三次元世界に三次元生命体として生きている、と言うだけの、同胞。
 説明がつけられなかった。ただ居合わせるにしてはあまりにも都合がよく、そして六次元思念体がいかにして、三次元世界へと降りられたのか。
 そうだ、おかしいのだ。なぜならあの存在は――「次元を超越している」。
 少女まつる、彼女は――
 
 
     ――――――・残編
 
「こないなってしもたら、かなわんなぁ」
 自己性のある世界で、ここが一番好きだった。個、主観、自分自身。窮屈なのにとても面白くて、こんなにも明るい。空や星や花、もっと無意味なあれこれが綺麗だと思える事、果ての共同体では理解出来ないだろう。食べものは美味しい。から揚げとうずらの卵がお気に入りで、納豆だけは何があっても駄目。……何があっても駄目。思わず笑ってしまう。楽しいから。
 役目を終えたホワイトボードに、適当なアルファベットの軸を取って、「無個性」と書いてやる。線を増やして増やして、見る間に二六、二七、二八次元へと変化する図形の、もうこの先は全て無個性。何て下らない悪戯だろう。……ああ、西瓜もええね。
 この世界を尊重して、約束事の通りには生きて来た。三次元的なシミュレイトで、自然を纏う命でいた。
「うちも、向こう行ったろかな。……ふふ」
 つぐはちゃんとあまねちゃん、二人の事も大好きだ。私たちの関係、連続性が、それこそ彼女が四次元ポケットに迷い込むみたいに、たった一つの無自覚と誤作動で壊れてしまう運命にあったのは残念だけれど、何か別の故意がつぐはちゃんを壊した訳ではなかった。そんなものは、現時点で存在していないから……私以外は。
 手間を取って、つぐはちゃんを呼び戻してもよかった。今からだって構わない。現に不合理は発生してしまっている。
 ただ、あまねちゃんと言う自己性が、つぐはちゃんを見つけようとしていた。
 この世界に横たわる約束と、二人の意志。
 単純、それだけ。そしてまつると言う自己性が、その二つを天秤に掛けた時、
 守れない約束があった。


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 あなたには「ひっそりと祈るような恋だった」で始まり、「月は今日も綺麗です」がどこかに入って、「時計の針は止まらない」で終わる物語を書いて欲しいです。

 あなたには「守れない約束があった」で始まり、「手のひらから零れ落ちた」がどこかに入って、「ぱちんと弾けた」で終わる物語を書いて欲しいです。

#書き出しと終わり
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