彼岸花の庭(掌編/短編)

 全ての出会いには、意味があるらしい。確かに過去の私たちは、少しのずれもなく今の私たちへと歩んで来た。
 その歯車を、奇跡と呼ぶのだとしても。
 今の私は、疑わないだろう。
 
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 囀りとは呼べなかった。軋む扉か、やや低い音の弦楽器。僕は鳥には詳しくないよ、と言ったギルの小さな声は、森の呼吸ですぐに薄らぐ。背中を追った。夏の迷路だ。緑と緑、樹皮、土の色。行く先々に、神話みたいな木漏れ日がある。
「ねえギル、訊いてもいいかな。『彼岸花の庭』を、君が知っているかいないか」
 これまでと比べて、私は随分遠いスクールを選んだ。今は一人、この街の片隅に住む。生まれ育った地元に、ゆりかごから中等まで離れず居たけれど、肩身が狭くなかった、と言うのは強がりになる。
 ISoPは、貴族の邸宅を改修した、まだ新しい学校だった。人種差別問題にも取り組む創立者、クルト・アングランは少年時代、充分な教育を受けられず――云々と立派なお題目を掲げるだけあって、その綺麗事程ではないにしても、環境として私には充分だった。実際、思ったよりも生徒は多国籍に見えるし、私や、他の二、三人が、特別限って取り上げられる事もない。中でも、同窓のギル・ハーディーは健全な男だったから、私も健全な好感を抱いていた。
「さあ。この学校のシンボル・ソングでない事は確かだな」
「北東の森は分かるでしょ? そのどこかに、彼岸花の一帯があるらしいんだけど」
「森より先に名前を貰ったのか。場所は知っているが」
「え、本当に?」
「前にも訊かれたよ。人気でもあるのか?」
 人気と言うには薄暗い話だ。表立ってはいないけれど、最近になって、真しやかに囁かれる噂を私は耳にしていた。
 ――夜、その森にある「彼岸花の庭」に入ってはならない。もしそれを破り、庭に現れる謎の女に見つかると、二度と帰って来られなくなる。庭はかつて怪しい儀式の場として使われ、挙句、儀式に参加した者も纏めて大勢が亡くなり、何も残されなかった枯れ果てた野を、彼岸花が食い尽くした。呪われた地の象徴として。
「そこまで、エスコートを頼めない?」
「どちらの面倒を取るか、って問題なら、僕は君の為に素晴らしい地図を描くよ。少年がそこを目掛けて蹴飛ばせば、サッカー・ボールだって辿り着く事が出来る」
「……私を蹴飛ばしてみる?」
「フオマは球には細過ぎるな。まあいいさ、僕も森にはよく行くからね。つき合おう」
 ギルの歩き慣れた案内は、彼の植物好きを間接的に物語っていた。実に二〇分かそこらも掛けた時、私たちは、切り株だけが鎮座する開けたところに出た。
「さあ、フオマ・モガ、ここがゴールだよ」
「んーと、冗談ではないんだよね?」
 全くではないけれど、何も見当たらない地面。確かに「庭」なら、これは正しい。花にはまだ遠い季節なのは分かっている、でも、見るからに主役は不在の舞台だった。脇役も居ない。
「彼岸花は春から初夏に葉が枯れて、地中に球根だけがある状態なんだ。開花適温は二〇から二五度くらい。それまでは、夏の暑さで花芽が生長を進める。秋になって少し冷えるとか、降雨で土の温度が下がった時、元々涼しい日陰でも早めに、裸の地面から一気に顔を出す。ここを『彼岸花の庭』と呼ぶ時期は、長くはないだろうね」
「へえ。ギルの前世みたいに、よく語るね」
「もう暫くを待てば、次の君は出会える筈だ。道を忘れていなければ、だが」
 頭を悩ませる様な順路ではなかった。私でも大丈夫だろう。
「そうだね、また来るよ。ありがとう」
 それも、とても近い内に。
 
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 夜の森は危ないから、入っちゃいけません。迷信が単なる子供向けの教訓話であるには、不要で恐ろしい脚色がつき過ぎていたし、庭はあまりにも奥まっていた。かと言って大人や、それに類する人たちが鵜呑みになどせず、そうした純粋な心の持ち主は近寄る訳もなく、もし訪れるなら、誰もが好奇心からだろう。私と同様に。
 サラー・レコは嘘つきには不向きだった。水曜日、二〇時。私の気のいい友人が噂の主を目撃した時と、状況は似せてある。そうして待った。刳り抜いた様に星空、寂寥を催そうとする虫の声。鳥はもう鳴かなかった。生温い風が吹き渡った時、何か違う気配が混ざった。
 ふらりと月光の中へ姿を晒して、妖精がする待ち合わせみたいな素振りで、少女は切り株に腰掛けた。齢はきっと同じくらいだ。こちらに背を向けて、俯きがちで、少女に関する殆どの事が、ちょうど似つかわしく秘密にされる。じっとしていた。彼女もそうだった。
 不意に、少女が顔を上げる。私は少し驚き、動揺した。内容は聴き取れないけれど、声が微かに、そして確かに届く。その距離感で、蛍の様に何かを呟いている。夜の森、女、怪しい儀式。噂が符合する。彼女が詠唱をする一分のその間に、月がぐっと迫った感じがした。
 やがて、時は終わった。柔らかく立ち上がり、森の深くへと溶暗してゆく。切り株の上でうずくまる影、少女は置き土産をした。周囲を確認しながら、さっきまで幻想の行われていた舞台に忍び込む。
「……革の、袋だ」
 全て、まるでお伽話の作りものだった。本当に帰って来られなくなる、それを信じてしまいそうな程の大きな躊躇いを、覚悟の中に振り捨てる。
 くたびれた一冊の分厚いノート、それっ切りだった。繙いてみると、最も古い日づけは何十年も、いや、寧ろ一〇〇年の方に近いくらい前のものだ。
 どのペイジにも始めに草花の名前があって、そのスケッチが添えられている。愛、妬み、夏の輝き。草花のそれぞれは、言葉によって多様に表された。美しい書き文字、筆跡はいずれも同じなのに、語り口や雰囲気が全く異なる。時には狂い、自由を渇望し、或いは温かく、柔らかい。特別な寒気を覚えた。
「何なんだろう……これが、昔の儀式?」
 読み進めてゆく内に、ノートにある一点の境で、私の寒気はまた質を変えた。その古い記録は、「待雪草」を最後に途絶える。しかし、まだ先があった。新しい日づけ、新しい字。つい去年の秋頃に蘇り、綴られたのは――「彼岸花」。
 ノートを戻す手は焦っていた。未来のこれ以上の不吉を収めようとした。
 森を抜ける道だけは間違えなかった。
 
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「やっぱり……亡霊、なのでしょうか」。彼女は怪談として捉えていた。
 私に翌日が訪れた事には、安堵する他ない。日常は退屈で穏やかだ。三つのピリオドをやり過ごし、昼の休みに入る。
 本と自然と白磁のティーカップを愛するサラーは、一見内気な様でいて大胆だし、知識欲がそうさせる旺盛な好奇心をしばしば抱えた。図書室は彼女にとって第二の住処であり、それだけでなく、衣擦れみたいなひそひそ話を交わすのにも適していた。
「私はそうは思っていない、けど、どっちにしても怖いと言うか」
「少なくとも、ただの噂ではないって事が分かりました。ただ、もう近づかない方がいいかも知れませんよ、フオマ。危なっかしいです。……気にはなりますが」
「んー……」
 気にはなる。確かにその通りだ、どうしても。「私たちよりもあの子の方が、危なっかしいんじゃない?」
「でも、どうするつもりですか」
「何をしているのか、それは知っておきたい。誰かにとって、もしくはあの子にとって、よくない事が行われているなら」
「……忘れた訳ではありませんよね? 『見つかったら』、を。フオマの体験は、噂の内容通りなのですよ。それがもし霊的なものでなくても、あなたの身に何か起こったら」
「尤もな意見だね」安全の保障が向こうにないのなら、こちらが持って行くしかない。候補はすぐに浮かんだ。「ボディーガードをつけて行くよ」
 
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「どうして僕が」
「女の子が一人で夜の森に出没するなんて、物騒じゃない?」
「その主張に於いて、君は正しい。僕たちがする必要はあるのかな?」
「大事にされたくないかも知れないでしょ、それに」わざわざギルを買ったのだ、私は。「もしかすると、君の力が役に立つんだから」
 あらましを説明して、残り全ては無理やりだった。約束を取りつけると、日を改めて私とギルは森の入り口に集合した。生物の営みを除けば、一九時半は静寂の佇まいをしていた。
 それぞれの明かりを手に、夜闇を掻き分けて進む。ギルは近道を知っていた。直線で結べば当然とも言えるけれど、方角や目印の情報がなければ、私では選ばない道だ。以前より早い、それでも、運命は少しだけ噛み合いを悪くした。
 革袋。あの少女は二日も来なかったか、習慣を終え、もう立ち去ってしまったらしかった。
「これが例の品って訳か」
「見て欲しかったものの一つ。何か分かる?」
 ギルはノートを捲り、それを私が傍らで覗き込む。「彼岸花」より先に差し掛かり、更新は以降も続いていた。そして、白紙になる直前のそこにある日づけは、まさに今日のものが記してある。少女は訪れていた。
 と、ギルの指先がペイジを一気に飛ばす。彼は僅かな膨らみに気がついた。ノートの最後、そこに貼りつけてある手紙の。
「古いみたいだね」
「……『もし再び会う事の叶わなくとも、また来世で、必ずや』。前書きかな。そこからは、彼岸花に対しての表現らしい。誤字や文法の乱れが目立つ様だが」
「そこで何をしているの」
 驚きが喉を塞いだ。反射的に動かした視線の先に、少女は怒りの形相を携えて立っていた。
「……見たのね」
「申し開きは出来ないな。悪い事をしたよ、アナ・クロロフ」
「え、っ?」ギルの言葉に耳を疑う。「知り合いなの?」
「知り合いも何も、君と同じスクールに通っているよ。それに言っただろう、『前にも訊かれた』って。彼女にね」
「……出来なくても、申し開きをして貰うわ。あなたたちが、どんな了見なのか」
「君が妙な噂の火種になっているみたいだからな。僕の見立ての限りでは、君に非はないだろう。ただ、場所と時間は選ぶべきだ。不用意に過ぎる」
「ギル、ちょっと説明してよ」
「このノートは、どうやら詞華集〈アンソロジー〉だ」
「……アンソロジー?」
 通常、作者の違う詩文を纏めた本の事を指す。差異はあるにせよ、確かに語り口としてその雰囲気はノートに秘められている。
「特にこれが扱っているのは、花言葉の走りとも言われているスタイルだ。草花と意味の特別な取り合わせを手書きの詩にしたためて、サークル内で回覧する。一九世紀初頭、フランスの貴族社会で流行したものを、今になって、君が始めた。……他にやり方はなかったのか? わざわざこんなシチュエイションにする理由が?」
「……これは元々、曾祖母の持ちものだったの。家族の誰も関知していなかった、掘り出しもの。貼られた手紙から、彼女の詩がこの森を舞台に綴られた事までは分かったわ。私もすっかり気になって、時折ここを訪れた。そして、契機になった彼岸花の、その詩を自分の手で書いてみたのよ。ちょうど、季節だったから」
「以来、今まで続けている」
「そうね。……あろう事か、私、一度だけノートをここに忘れて行ったの。気がついたのは遅かったけれど、慌てて戻ったわね。信じられない事に、ノートはなくなっていた。探すには暗過ぎたから、明くる日に持ち越した、そうしたら……同じ切り株の上で見つかったのよ。新しい詩を添えられて、ね。――もう、分かるでしょう?」
 彼女がぽつりと呟いただけのそれは、私の中で大きく衝撃となって広がった。「夜は、現れるその魂の為にある時間。初めから、噂の主は私じゃない」
 
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 壊さないで、もう二度と近寄らないで。アナは私たちに強く言い放った。信じ込んでいる様だった、詩を通じて交信する相手が、大切な魂であるのだと。
「思い違いはしましたが、本当に亡霊だったのですね」
「あの子にとってはね。……私、どうしていいか分からないよ。大丈夫なのかな。ただただ見過ごしたままで、放っておいて」
「無闇に口外するべきでないのだけは、確かですよ」
 不本意だけれど好都合、そうも言っていた。噂の内容は癪に障るとしても、それによって人が忌避し、アナの曾祖母が待つ聖域に踏み入ろうとしないのなら。
 昨晩の帰り道、ギルにも問い掛けた。私たちの最適解を。「突き詰めても、結局は彼女のプライヴェイトだ」、彼の声は決して冷ややかではなかった。少し考えたいんだ、ギルは私に小さく告げて、森の入り口で別れた。今日、ギルはこの議場に呼んである。放課後の図書室、サラーの定位置と、その隣。
 随分と時間を使ってから、ギルは姿を見せた。「済まない、遅くなった」
「こんにちは、ハーディーさん」
「ギルで構わないよ。何を話していた?」
「私たちは悩んで、悩み終わったところだよ。君の考えも聞かないといけないから」
「そうか、待たせた事を改めてお詫びしよう。ただ、それだけ僕はいいニュースを掴まえて来たんだ。話を進展させる材料が、充分に集まったと言う、ね」
「進展? 何があったの?」
「今ここで、全てを僕から語るのは難しい」含みを持たせた遠回しな表現は、却って彼の自信を裏打ちする様だった。「僕たちは再度、『彼岸花の庭』へ行くんだ」
「私は、同席しない方が賢明でしょうか?」
「彼女は望まないだろうが、これは、問題を深く知る誰にとっても解決編であるべきだ。部外者にとっては、噂が立ち消える事を解決としたいね」
 ギルの後押しによって、私たちは約束される。彼を信じていいし、信じるしかない。
 集合に指定された時間は、まさに庭が聖域へと変わる真っただ中だった。
 
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 森の血流みたいな蒸し暑さが流れていた。暗がり、月明かり、体の奥に、吸えなくなるまで空気を押し込む。心を落ち着かせるのには、音の足りない空間だった。それを補う事は、私には出来ない。肌が少し汗ばむのを、希望の様にして立っていた。
 苛立ちを隠そうともせず、定刻通りにアナ・クロロフは現れた。
「……ご高説があるらしいわね?」
「あまり構えないでくれよ。どこから話すべきか、忘れてしまう」
 舌打ちが聞こえた。「早くしてくれるかしら」
「一つだけ確認させて欲しい。君は、君のひいお婆さんについてどれくらい知っている?」
「……。正直、関心を持ったのはノートが発見されてから。元々、全く知らなかったと言っていい。若くして亡くなったのよ。家族に尋ねても、多くの情報は得られなかった」
「分かった、ありがとう。……まず初めに言っておく」ギルは淡々と口にした。「君が詩をやり取りする相手は、決して君が考えている高潔な魂の事ではない」
 にわかに緊迫感が張り詰めた。私は勿論、サラーも身じろぎ一つ出来ずに、ただ成り行きを見守っている。
「あなたに、何が分かるのよ」
「あの詞華集は、君だって何度も読んだ筈だ。君が『彼岸花』を書くまでは、全て同じ筆跡で記されている。しかし作風は一定ではない、どころか、大いに違う。但し、詞華集の終盤だけは、ずっと雰囲気が乱れない。暗唱してみせようか」
 
  生きものが まだ愛を知らないうちに
  甘いみずを吸わせるように きしむ
  重ねた手のひらを あけないで
  雪がやんでいないの
  その胸で咲けば 徒花といえど
  窓の外で散れるのでしょう
  おもいでの空だけが 晴れているの
 
「……今のは『待雪草』の一節だ。これに比べると――少し酷だが、殆どの作品は、質で劣っている。詩に明るくなくとも、はっきり区別し得るくらいにはね。これが彼女本来の詩、つまりこの詞華集には定義通り、複数の作者が存在しているんだ。一人ではない、サークルによる活動だった」
「盗み見した程度で、よく覚えたものね。だから?」
「だから、だって? なぜ彼女が、全て代筆したと思う?」
「無駄なお喋りはやめて。……訊いてあげるわ、どうしてよ」
「――『メンバーの中に、字の読み書きが出来ない者が居たから』だ」
 瞬間、無言の驚愕が広がった。話が想像もしない方向に転がり始めていた。私たちの為に一呼吸置いて、ギルは更に続ける。
「最後のペイジに貼られた手紙は、ひいお婆さんに宛てられたものだろう。勿論、添えられた彼岸花の詩は彼女のものではなく、そして、誤字や文法ミスがそこかしこに散見される。当時のメンバーによって送られたもの、と考えて差し支えない」
「あなたの推測に過ぎないでしょう? ……根拠のない美化は、冒涜と同じよ」
「また後で分かるさ。ところで、待雪草は珍しい植物ではないが、耐暑性に若干の難があり、少なくとも、この森に自生する種でもない。そもそも彼女が詩作を始めてから、対象は大きく変わった。高山植物などが主題に置かれる事もあった。……この場所を離れたのさ、転地療養の為に」
 夭折、噂にあった犠牲者、転地療養。繋がってゆく。
「流行り病、伝染病に罹患してしまったんだ。しかし、居所を移して安静にするだけの金銭的な余裕を持っていた。そんな彼女が、読み書きの出来ない者との交流をしていたんだよ。歴然たる身分の差を超えてね。……もう、はっきりさせておこうか。さっきから曖昧だったが」
 彼の静かな声音は、この空間で、最も響く様に選ばれていた。
「読み書きの出来ない者、詞華集サークルのメンバーたちは――当時の、奴隷だ」
 
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 耳鳴りに近かった。木々も、庭に開いた天空の穴も、その震えを吸い込もうとはしてくれなかった。爪先をぎゅっと閉じる。ギルの瞳だけが、運命を澄ましていた。過去を旅していた。解き明かす為に彼の放り投げた鍵は、甲高い音を立てて、地面に散らばる。
「……推測の、域を超えているわ。作り話じゃ、なくて?」
「冗談で済む様な話じゃない。……個人単位での奴隷、人身売買みたいなものかな。君のひいお婆さんは、それをよく思っていなかった。だが、一家の主でもない彼女には、大きな力にはなれなかったんだ。精一杯の事をした結果だよ」
「そう、だとしたら、……」
「誇るべきだと、僕は思うよ。生き証人が居る。全て彼から聞いたものだ。――当然ご存知だろうね? 僕たちが誇るISoPの創立者、クルト・アングラン氏を」
「……それは、本当、なのですか」
「充分な教育を受けられない少年時代を過ごし、人種差別問題にも取り組んだ。アングラン氏は、当事者だよ。そして彼こそ、君のノートに新たな詩を書き添えた張本人だ。……ここで注意したいのは、アングラン氏が、噂の主でない事だね」
 ギルが正しいと言う前提に立てば、それは確かになる、だって……彼は男だ。あの内容で語られているのは、謎の女。随分と齟齬がある。
「噂の主はまぎれもなく君さ、アナ・クロロフ。君が先だ。アングラン氏も噂を知って、わざわざ夜にこの庭を訪れた一人だよ。その女は君のひいお婆さん、サシャではないか、ってね」
 アナの表情に動揺が走った。真実の裏打ち。なぜ、あなたが曾祖母の名前を。
「手紙の送り主もそうだ。この地に彼岸花を植えたのもね。花言葉の起源には不明な点も多いが、詞華集はその走りと言われている。意識した筈だよ、彼岸花の花言葉を挙げてみようか。情熱、想うはあなた一人、諦め、再会、悲しい思い出、また会う日を楽しみに。そんなところだ。勿論、病魔に倒れた仲間を悼む気持ちもあっただろう」
「植えられたものだったの、ギル?」
「詞華集の中で彼岸花に言及しているのは、手紙とアナの最初の詩だけ。それ以前には全く登場していない、ここが噂通り、彼岸花の咲き乱れる庭にも関わらず。解散後に植えられた証拠だよ」
 これは補足だが、そう言ってギルは更に、彼岸花の特徴を教えてくれた。
 まず、彼岸花に種子は出来ない。球根が自力で生息地を大きく移動する事は難しく、況して森の一角だけに突然、そして自然な流れで辿り着くのは特に考えにくい。但し、たった一つの球根からでも、時間を掛ければ、分球によって大きな群生を作り得る。噂の中で、「何も残らなかった地を食い尽くした」と伝えられる、所以。
「そして、彼岸花はアレロパシーと呼ばれる効果を持つ。反応や強弱は様々だが、他の植物の生育を阻害するんだ。それが尚の事、噂に拍車を掛けたんだろうな」
 少し疲れた様子で、ギルは肩を回す。それは人知れず、この長い物語が結末に向かう合図となった。
「……偶然だった。君が大きな失敗をした日に、ちょうど彼は訪れたんだ。そして見つけた。見覚えのあるノート、書体、詩文。幻ではなく、ここには本当にサシャが来ているのかも知れない。アングラン氏は、希望を持ってしまった。かつて叶わなかった、身分違いの愛と共に」
「身分違いの愛、ですか……?」
「彼女の療養中に作られた詩を、アングラン氏は当然、初めて目にする。日づけを確認すると分かるが、『待雪草』は最期にして、手紙の届いた直後に生まれた詩だ。後半を読もうか」
 
  こごえては 吐く息のつたなささえ
  方舟のかたちする手で ともる
  もしも明日 生まれかわれたら
  待雪草になるの
  生きものが まだ愛を知らないくせに
  その胸で咲きたがるように
  たりなかった空のいろに あこがれていたの
  すきだったそらがいま ちかくにあるの
 
「……何だか、切ないね」
「ああ。彼の手紙は、彼岸花に寄せて愛を綴った。この詩も己の終わりを見据えながら、同じ様に愛を詠っている」
「両想い、だったのですね。許されなかった幸せが、すぐそこに、あったのですね」
「その通りだ。……待雪草には死を連想させる逸話もあるが、何よりもそれは――ヒガンバナ科の植物の一種。彼女は身の回りにある草花から全てを引っくるめて、間違いなく、敢えて選んだ素材だろうね」
「それじゃあ、私たちは……」
 陽炎の様な呟きが、ゆっくりと溶けた。
「互いに、同じ相手を見ていたんだ」ギルが、空を仰ぐ。私たちにはまだ、遠い空を。「一人の、高潔な魂をね」
 
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 森の会合は、夜に行われた。気づかれてしまっては、いけなかったから。
 名前も身分も関係ない、それは一つの信条だった。メンバーの中には、名前を持たない人も居た。文字の書けない人も居た。会を主導する娘は平等の為に、全員の代筆を請け負い、匿名性を保つ事にした。特定の時間は、自分と詠み手以外のいかなるメンバーにも森の立ち入りを禁じた。
 違反が判明すると、そのメンバーはリストから削除する。罰則は重かったけれど、決して破らないと言う一種の誓いとして制定されたもので、決して疎外する意図はない。
 時が経ち、悲劇は起こった。サークルは解散を余儀なくされ、中身を失い、どこからか噂として流れ、「入ってはならない、帰れない」と言う表面だけが現在も残っている。
 今までの全て、アナがどう捉えて、どんな心境でいるのか、私たちの行いが一切の傷なく正しかったのか、考え始めてしまうと取り止めもなかった。ただ、ギルから報せを聞いた。詞華集は彼女の手によって、クルト・アングランへと譲渡されたと言う報せを。
 真昼の庭は開放感に満ちて、私はちょっぴり、不思議な気持ちになる。赤く鮮やかに染まる景色を、私はまだ、見た事がない。今もこの地中で、どれだけの彼岸花が時を待っているんだろう。
 思いを馳せる。重ねてしまう。
 最後まで、花咲く事を望んだその物語は、
 ひっそりと祈るような恋だった。


 あなたには「弾けて消えてしまう前に」で始まり、「全ての出会いには意味があるらしい」がどこかに入って、「また来世で」で終わる物語を書いて欲しいです。

 あなたには「ひっそりと祈るような恋だった」で始まり、「月は今日も綺麗です」がどこかに入って、「時計の針は止まらない」で終わる物語を書いて欲しいです。

#書き出しと終わり
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