私たちの全て(掌編/短編)

 時計の針は止まらない、その事が、正しく生きる君らしくて、私は好き。時間なんて、幾らでも確認出来るのに。スマートフォン、炊飯器、机の上の腕時計。電源を点ければ、給湯器のリモコンでさえも、こんな秋の夜を教えてくれる。君はそれでも一目で分かりやすい壁掛けの時計を飾ったし、その動きが鈍くなると、電池も面倒がらないですぐに代えたよね。先週の中頃、だっけ。つい最近だ。
 フロアーに三つある内の、私たちの恵まれた部屋。向かいは無人、こっち側には隣室がなくて、階下の空間も住居じゃない。他よりも、多少の騒ぎを許された部屋。って言っても、君は根っこが静かなんだけど。まあ、私が話せば相応のテンションで乗ってくれるし、口下手、って訳ではないんだよね。
 私たちはいつも、ちょっとずつずれていたよね。君は写真が趣味で、美術が好き。私は短歌が趣味で、文芸が好き。ああでも、器用な君だから、軽い気持ちでやらせてみた短歌も、回数を重ねる内にあっさりこなしてみせたんだ。ちゃんと覚えているのかな、君は君の歌を。テーマは恋ね、なんて私が言って、お互いに詠み合った事。〈ドラマが嘘に思えるキスを番組の途中ですがも予告もなしに〉が私で、君のは〈案山子その腕に鴉をとまらせてずっと未完のままの恋文〉。一字一句違わずに、分かるんだよ。短歌まで別の方向性だし、未完のそれは一体いつの、誰宛ての恋文なの? 訊けなかったけど、少し妬いたなぁ。今のところ、あれが君の最後なんだよね。もっと、続けてみてもいいと思うんだ。
 そう、君が今手に取って眺めている写真も。アルバムに収められただけの写真が、何だか勿体ない様な気がして、飾ろう、って提案したの。一枚ずつ選んで、休日には二人でフォト・フレイムを買いに行って。私がグラス製のクリアーな、君が木製のスタンダードなものにしたのも、ああ、私とは違う君らしいな、そんな風に感じたんだっけ。で、交換したんだよね。君が言ってさ。私が選んだ写真は、君が買ったフレイムに。君のは、私のに。いいな、って思ったよ、純粋に。青春っぽくて。
 テレヴィには、地上波初放送の映画。監督の最新作が公開された記念だ。懐かしいね、一緒に劇場で観たのも。物語がもう半分を超えた辺りでのコマーシャルに、私の背後で、君がキッチンへと動く気配。ねえ、もしかしてまたそれ?
 確か八月の中盤くらいからだ、林檎の兎が量産され続ける様になったのは。飾り切りの種類には、バナナの海豚なんて変わったのもあったけど、そっちは一番最初の日に作られて以降、登場しない。兎だけはもう三週間になる。毎日二羽ずつ、朝晩欠かさずに。理由は知らない、言わないから。……せめて、つがいにしてあげたらいいのに。独りぼっちの兎はさ、寂しくて、死んじゃうんだよ。
 包丁の音がなくなって、やがて来る君が、兎を載せた小皿と、コーフィーの入ったマグを机に置く。あ、そっちは私の。お揃いの柄、君は時々間違えるよね。青い文字が君のだってば。……まあ、別に構わないんだけどさ。ブラックを飲まない私のマグに、たっぷりと湛えられたそれは、不思議なリズムで揺らめいて見える。少しだけ、映画の空を映し込んで。
 林檎はすぐには食べられない。この後冷蔵庫に行く。そして朝、新しい兎と交代する様に、作り終えてから手をつけるのがルーティンだった。
 ……ねえ、もしかして、さ。嫌な想像をしてしまう、君はそんな人じゃないって分かっているのに。
 あの夜が終わって、次に君の顔を見た瞬間から、全部が私の罪みたいに思えて。話せなかった、そして何より、どうしようもなかった。体調には段々と変化が表れ始め、祈る様にした検査薬は陽性を示した。震えが、止まらなかった。
 未だに私は、私を呵責する。それがおかしいんだって事、頭で理解していても、心が違ってしまったんだ。
 手遅れ、なんだよね。何もかも。
 今更どうやって謝るのか、方法は、もう、きっと。
 
     x x x
 
 時計の針が止まる事を怖れたから、その前に電池を新しくした。今はちゃんと動いている。それだけで、少し安らぎがある。或る芸術家について、わざわざ君に言ってはなかった筈だ。言っても、仕方のない事だから。
 特徴もないアパートの、この一室は気に入っていた。居心地も、条件もいい。それ以上に、君と築き上げて来た部屋だ。色や食器や思い出に至るまで、君と暮らし始めてからの全てがある。私物の割合は、君の方が多いかな。
 ラックに並ぶ、短歌のノート。恋する乙女です、って自己紹介する様な、きらきらした作品の印象が強かった。難しい、って、君は写真を投げた癖に、人には一箇月くらいやらせるんだもんなぁ、なんて、君の選んだ写真を見ながら苦笑する。忘れているといいな、恋をテーマに作った短歌。〈案山子その腕に鴉をとまらせてずっと未完のままの恋文〉、自分でははっきり覚えているのが憎らしい。
 アルバムから一枚ずつ決めて飾る、そんな話になった時、内心では焦った。二人買いものに出掛けた先で、君が透明なフレイムを持って来た時はもっと。咄嗟に、交換を思いついた。君がこの写真を気に入っていた事は知っていた、だからこそ、今手の中にあるこの写真の裏に書いたんだ。木製のフレイムに隠れた、ずっと未完のままの恋文。絶対に届かない言葉。
 この映画も、君のお気に入りの一つだったね。忘れるといけないから、視聴予約までしておいて。君が、ここで観ていられる様に。
 ただひたすらに、祈るしかない。信じるしかない。キッチンへ向かった。いつも通り、林檎の兎を作る為に。
 あまり適した飾り切りはなかったけれど、兎の相方は、バナナの海豚にした。だってぎりぎり、乗れそうじゃない? 水族館でも、ショウのパフォーマンスでやるし、君も若干、そんなファンタジーに憧れている節があったから。
 所謂、これは精霊馬だ。普通は、魂が速く帰って来られる馬に胡瓜を、遅く旅立って行く牛に茄子を見立てる。うちでは、君を連れて来るのが海豚ってだけだ。牛は居ない。乗る事の出来ない兎だけだ。ずっととどまっていて欲しいから。
 一度作ってしまうと、後は不安だった。林檎の兎が腐ったり、食べてなくなったりしたら、それは元々兎の居場所、月の引力か何かで、君は自然に連れて行かれそうな気がした。だからずっと、兎はここに存在し続けて貰う。君がちゃんと訪れて、今この瞬間も一緒なんだって、祈り、信じながら。
 作り終えて、飲みものと一緒にテレヴィの前へ戻る。棚からは、もう持ち主の居ないマグを出した。使われない事、僅かでも埃が積もってしまう事、それは〈過去〉の証になってしまうから。そっちは私の、なんて言ってくれているかな。以前から、わざと間違ったりもしたんだけれど。ごめんね。
 いい時間になっていた。テレヴィの右下と、壁掛け時計を見比べる。大丈夫、ずれてはいないみたいだ。
 フェリックス・ゴンザレス=トレスなんて名前、君は聞き覚えどころか、一度聞いてもすぐに忘れてしまうだろうね。キューバ生まれの芸術家、彼の作品の一つに、壁掛け時計を二つ並べた〈無題(パーフェクト・ラヴァーズ)〉がある。同じ時を過ごす恋人、それでも時計はいつか、どちらかがずれ始めてしまう。泣きそうだった。どんなに強く誓いあっても、恋人たちには守れない約束があった。トレスはゲイで、恋人を先に亡くしている。ストレイトな君は男の人が好きでも、私は違うんだ。君が、君だけが好き。未完のままで、伝えられなかったけれど、ね。
 突然、君が死を選んだ理由。きっと私にも責任がある。それがまだ、明確な形を持たなかったとしても、……君の中には、命が宿っていたんだってね。君が直近の彼氏と別れてから、半年くらいは経っている。……ああ、もうやめよう。君はそれ程までに思い詰めた。慰めるにはもう遅い。君は何も話さなかったし、私は何も気づけなかった。二人の間には、もう、それで全部なんだ。
 少し考えて、再びキッチンに立つ。独りぼっちの兎が、死んでしまわない様に。隣に新しく一羽を添えてやる。これで少しは、マシになったかな。
 皿を机に置いて、今度は私の選んだ写真を手に取った。君のフレイム、透明な。真ん中で笑う君が眩しい。君が被写体になったものは沢山あるけれど、とても綺麗で、本当にお気に入りだ。君にも言ったっけ、凄くよく撮れているって。
 ……得体の知れない予感だった。もしも。もしも君が、知っていたら。
 反射みたいに、私はフレイムを引っ繰り返していた。グラスに透ける写真のその裏側、それは、予定調和な真っ白、じゃなかった。
〈気づけなくて、ごめんね
  話せなくて、ごめんね〉
 心の底から、不意に何かが崩れ始める。いつ、だ。君はいつ、これを――
 
 ――世界が、遠ざかって行く。その中で、私たちの全てが、手のひらから零れ落ちた。


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 あなたには「ひっそりと祈るような恋だった」で始まり、「月は今日も綺麗です」がどこかに入って、「時計の針は止まらない」で終わる物語を書いて欲しいです。

 あなたには「守れない約束があった」で始まり、「手のひらから零れ落ちた」がどこかに入って、「ぱちんと弾けた」で終わる物語を書いて欲しいです。

#書き出しと終わり
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