蛍が夢を見る夜に(掌編/短編)

 ひっそりと祈るような恋だった。一方的な憧憬、つまりそれは、破滅に対しての。

 
 初めは後悔した。七月の雨の朝、そのローソンに自転車を停めた時、男性はこちらを見た。スタンド灰皿の脇に据えられたベンチ、俺が紫煙を味わう傍らで、五〇代半ば程と見える男性は頻りに呟いていた。「滅ぼしたいなぁ」。特徴的な声で、柱の様に出っ張った壁越しなのもあって、言葉の端々は聴き取りにくかったが、第一声は間違いなかった。どうも、話し掛けられている感じではない。時々に上体を前屈させて、俺の顔を窺う仕草の為に、居心地は悪かった。ただ、最後まで矛先は向かなかった。
「手っ取り早く稼ぐのにはさぁ、バイオ・テロでも起こして、……、次はどう資金を集めようかなぁ、……」
 忌憚なく言えば、イカレたやつだった。軍用施設を乗っ取れないかとか、傭兵は幾らで応じてくれるんだろうとか、そんな危険思想を延々とやっている。彼の夢が叶うとは到底思えないが、単に、絵空事として描くのでさえ嘘くさい人間が、こうして現実の、真隣に存在する。話の内容はどうだってよくて、その一点に於いて、俺は純粋な残虐性を感じた。
「滅んでも別に構わないし、俺はいいと思うんだよなぁ」
 ただ、根底で俺と男性は同胞だった。狂った方に具体的だが、俺と一緒で、由来は厭世家なんだろうと思う。煙草が短くなった。ナチス・ドイツのヒトラーがやった毒ガス室、もうやり過ぎなくらいあからさまな単語を彼が零す横で、火を揉み消し、駐輪場へ歩き出す。
「逃げらんねぇぞ」
 独白に似せて、確かに俺を刺していた。味方でなければ全て敵、声がそんな様な雰囲気をする。自転車のかごには鞄をそのままにしていて、辿り着いた俺は、中から財布を取り出す。立ち去る前に、余計な事を決めてしまっていた。
 男性の元へ戻ると、俺は二万円を突き出した。男性は狼狽した。
「今日の二一時」金については何も言うつもりがなかった。これ以上の縁は要らないし、今後を知りたくもない。でも、これだけは伝えておいた。
「この街は、少しの間滅びます」

 
 時刻を目前に控えたその展望台に、ざっと二〇人は集まっている。市の中央部、標高は凡そ三〇〇メートル程の山中にある、やや広い公園。雨は上がった。土の上に積まれた花火の袋が見えた。それぞれの意図や心持ちは何だって構わない。ただ、同じく願う景色がある。おい、一〇秒切ったぞ、そう言った男性はカウント・ダウンを始め、周囲の人々が続々と乗り合わせた。三、二、一――声の残滓が尾を引いて、静寂の下線に割って入った時、全員の焦がれた望みは叶った。それは速報として映った。眼下の街が一転して暗闇に沈み、園の外灯の小さな光がぱっと奪われた瞬間、辺りからは劈く様な喝采が起こった。
「よぉ兄ちゃん、やったな! アンタ、酒は飲めるかい?」
 隣で発せられた炭酸の第一声が、夏の重力に逆らって消えた。
「ええ。手持ちがありますんで、お構いなく」
「じゃあ、乾杯と行こうじゃねえか。ほら、出した出した!」
 研ぎ澄まされた銀色の缶が待っていた。彼に従い、慌ててバッグから掴み取ったインドの青鬼の縁を、軽く触れ合わせる。少しずつ宿り始める、各々が持参した光源の、仄かな底に美しい色の交わりを見た。
 互いの名前は、尋ねない約束になっていた。

 
 ――「ブラックアウト爆弾」。電線路などに炭素繊維を付着させてショートを引き起こす、停電を目的とした非殺傷兵器。実際には航空機から投下する本物の爆弾だが、今回の計画はそんな大それた規模ではないだけで、同じ原理を利用していると言う。
 インターネットの中でも古くさい雰囲気の、黒い背景が使われた胡乱な掲示板だ。一般に普及するブラウザーでは辿り着かない、輝度の薄い世界。〈文明の終焉みたいな、滅びの夜を過ごしたい〉、投稿者が語る犯行動機は、ただそれだけにとどまった。
〈僕を含めて四人、何にせよ自分たちがやりたいから勝手にやるつもりでいるけど、本気にして貰えなくても仕方ないし構わない。ただもしこの計画を鵜呑みにしてくれて、楽しめる人が居たら一緒に滅びの夜を楽しもう。〉
 直下の書き込みから、賛同者が現れ始める。それは祭りを兆していた。「滅びの夜」は既に祝うべき対象として扱われ、人々は狂騒の準備を進めた。証明は出来ない、だから敢えて疑わず、妄信する事を前提に掲げて。
 そして、攻撃の中心地に、何より俺は居合わせていた。

 
 思い思いの宴になった。眩しさで測れば、手花火は最も騒々しい信号だった。或る男性は展望台を離れ、レジャー・シートの上で星を眺める。さぞ綺麗で、もしかしたら、禍々しさを伴うだろう。駐車場の方では、三脚が立っているのが分かった。
 初恋の人が来ていた。子供のお遊戯を除いての、俺の初恋。彼女は俺を認識していない。高校生の頃、一方的に憧れただけの存在だった。拠点を遠くに移してはいないらしい。彼女は歌を歌った。ギターは慣れた手つきで、アンプ、マイク・スタンド、そう言ったものも揃えているくらいだから、今は夢の途中なのかも知れない。彼女の風景を横切っただけの俺に、彼女と音楽、その二つは不意の反応だった。滅びの夜を、俺と同じ場所から臨んでいないといい。浅はかに、この犯罪をはしゃいでいてくれた方がいい。
 何人かのグループは先に下山した。暗黒の街を練り歩くのだ。俺にもその予定がある、肉迫しなければならない。入れ替わる様に別の誰かが訪れる。順序が違う、と言うだけだ。
「あなた、地元の方?」
 徐に声を掛けて来たのは青年、後から来た内の一人だった。
「ええ、まさに。市内に住んでますが……そちらは?」
「僕はね、静岡から」
「静岡!」確かに、滅多な事ではない。それにしたって、随分と足を伸ばしたものだ。「わざわざ、今日の為に」
「そうですね。ついでに観光もしたんですけど、滅びの夜を引き立てる為に、昼の顔を拝んでおいた、くらいのものです」
 彼には酒を振舞った。クーラーを持参した賛同者が居て、空いたところに残りの缶を入れて貰っていた。
「野暮かも知れませんけど、あなたはどうして祝賀に?」
「俺、ですか。……去年、かな、台風があってね。停電したんですよ。次の日にはもう復旧したんですが、周辺地域と比べて、ここいらだけ遅くて。……それが、よかったんだ。炊飯器が使えないから、土鍋とコンロで飯炊いて、いつ直るか分からんし、解けると嫌だからって、フライパンで出来る、冷食だらけのメニュー並べて。外に出てみりゃどこもかしこも真っ暗で、深夜の公園で――あ、ここじゃなくてね。もっと狭い、近所の公園で。真っ暗の、小雨の中で煙草吸ってみたり、色々やってたら……ああ、これは居心地いいなぁって。下り坂が、世界に用意された感じで。だから一緒だと思いますよ、単純に、滅びの夜を過ごしたいって、そのままの理由は」
 彼女のライヴは続いていた。楽しみましょう、月は今日も綺麗ですから。当時は演劇部だった。どれだけ考えても、彼女はもう、他人になっている。葉擦れが被さった。「俺も、訊いていいですか」
「似た様なものですかね、僕も。理想があったんです。機械の反乱とか……隕石なんかでもいいんですけど、明らかな滅びをこの目に焼きつけて、滅びの中で死にたいって理想が。……だからね、僕、今日は死のうと思って来てるんです」
「この後、ですか」
「分かって貰えますかね? 例えば旅行なんかで、友達が談笑したり、遊んだりしてる横で、それを聞きながら眠る事の、安らかな気持ちよさみたいな」
「まあ、分かります」
「今日は、そんな欲張りが出来るんじゃないかって。ここに居る皆さん、面識はなくても仲間なんですからね」
 適していた。滅びの夜は満ちていた。殆どの命が大人しく静かだ。現況を、誰かのラディオが時折追って報せる。大通りを北上する光の列はパレイドを表していた。先に下山した賛同者たち。蛍は、夏だけを知っている。それを考えた。一夜だけの、俺たちは蛍になる。闇の底では、生者よりも輝く種類がある。その先へは行かない。蛍たちは今日限りで死に絶える。そして蛍たちの死後に残された意識が、また目覚める。マリン・スノウみたいな思い出を、やがて過去になるこの夏に残して。
「……もしかして、あなたが今回の……?」
「まさか。それならせめて、もう少し自分の近所でやりますよ。縁も所縁も、土地勘すらないところで実行したりしません」
 何を吸うんですか。質問の示すものが暫し掴めず、テンポを幾つか飛ばしてから、俺はラークの黒い箱を取り出した。互いの間に言葉はなかったが、差し出して、火をつけてやる。それがちょうど、影送りの様になったのかも知れない。目が細かった。五回も吸うと、ハード・ボイルド映画の真似事みたいに、親指の腹で押し消した。
「……では、そろそろ」
 彼は笑った。点在するどの光も彼の顔を照らさなかったが、それだけは分かった――分からなければ、ならなかった。「夢を叶えに行きますので」

 
 ついに、蛍の群れが四方へ散った。滅びの夜はただ遠目に観察するだけのものではなかったから。胃の腑みたいな暗がりに、家々は精一杯の抵抗を試みる。不気味な境界の内側を闊歩する、俺は初恋の彼女と同じ一群だった。
「お兄さんは地元の人なんですね。私とおんなじだ」
 住宅街で、道は真っすぐに無垢に続いていた。商店があり、煙草、酒、飲料、店の前に据えられた五台の自動販売機はいずれも骸になって、俺たちを易々と通した。
 勇気、とは違うのだろう。滅びの夜が起こる事をどう知ったのか、訊かなかった。
「……歌、お上手なんですね」
「え? 聴いてくれてたんですか。ありがとうございます、嬉しいなぁ。昔っから歌うのが好きで、やめられなくて」
「誰が好きですか、アーティストで」
「うーん、沢山居ますよ。沢山居ますけど、今なら――」
 全く耳馴染みのないその答えは、俺の半径からどれくらい離れているのかさえ不明確に泳いだ。期待する息遣いだった。魂の辺りから焼かれそうになる。分かち合えない。それが確信になる。
「……さっきのは、全部、オリジナル曲ですか」
「そうなんです。自主制作盤だけど、CDも出しました。あ、営業じゃないですよ? でも、どれか気に入って貰えたら、それで充分です」
「あれがよかったですね、えっと、『弾けて消えてしまう前に』、って歌詞の……」
「あっ、本当ですか! 実は私も好きで、『ユーゲントラウム』ってタイトルなんですけど」
 そうだろう。君はやっぱり、生者の側に居る。それでよかった、小さな希望は切れ切れに繋がっている。開け方の分からない箱があるといい。幻想を丸々しまっておける様な。
 線路を越えた。滅びの夜でなくとも、もう踏切の鳴らない時間だった。去年も、ここまで徘徊した事を思い出す。再現だった。ロータリーから、沈黙する丁字路を、パノラマ写真でも撮る様に眺め回す。今、内側に、蛍の拍動を感じた。止まり木を求めた。一服したいから、そう申し出て、不器用に別れる。いい夜を。恥ずかしげな挨拶で、彼女たちを見送った。花の名前が似合う君だった。
 Jugendtraum――青春の夢。青年の為の空間。
 彼女は、数学が得意だっただろうか。

 
 朝日が昇る前を選んだ。魔法が解けると、たちまちに侵されてしまうと思ったから。
 懐中電灯が、目鼻の先を切り裂いて行く。午前三時の公園内に、蛍は残っていなかった。
 彼の夢を言葉通りに辿るなら、群れの近くで眠りに就いた筈だった。坂を上がり、階段を踏み締めて歩く。展望台の方から、沈殿して今にも消えそうになる熱量の残り香を嗅ぎ取った。本当に、修学旅行さながらだった。騒乱が或る点から途端に静まり返る、ちょうどドミノ倒しにも似た、全てが崩れ切った後の、しんとした幕引き。木々の間に、痩せて長身の彼を探す事は、滅びの夜の答え合わせみたいな手触りで、俺は俺の、まだ死んでいない蛍を信じた。
 それは考えてみれば先入観だったが、想像の通りだった。彼はロープによって支えられる形を取った。懐中電灯は彼の膝頭の辺りを照らし、仰げば闇は深々として、面持ちを悟らせようとはしなかった。俺から敢えて暴く事もなかった。
 幾らか明るければ、この場所から展望台の様子は分かっただろう。その輪を窓にして、最期に彼は、美しいものを目にしただろうか。俺は携帯電話を握った。数字は三桁でよかった。
「……もしもし。……事件、かな。首吊りです。……」
 状況を伝える為の直接的な言葉が、一度、彼を冒涜する。心の中で謝った。電話を終えて、そのまま地面に正座する。祈りではあったが、哀悼ではなかった。
 もうじき、世界は太陽で目覚めてしまう。復旧にはまだ掛かるだろうが、少なくとも、蛍の光が掻き消される程には色を取り戻す。こうしてまた、地層の様に、新しい世界で上書きされて、滅びの夜が、剥がれ落ちて行く。
 無条件に、何か一つをとどめておけるとしたら、俺は何を選ぶのだろう。
 時計の針は止まらない。


 あなたには「ひっそりと祈るような恋だった」で始まり、「月は今日も綺麗です」がどこかに入って、「時計の針は止まらない」で終わる物語を書いて欲しいです。
#書き出しと終わり
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