輪廻する水際(掌編/短編)

 弾けて消えてしまう前に、私は短く、それを伝えた。
 
 その時を待った。含羞草が葉を畳んでゆく動きの様に、しなやかな感度で俯く。この両目は跳ぶ直前に開く。肺の底、すっ、と短く空気を叩きつけて、瞬間、同じ勢いで台を蹴った。水面を見た。気持ちや、足に込めた激しさとは反対に、体は指先から還り始める。柔らかに抱かれる。内外の境を覚えない。いつも同一を目指していた。
 勘違いみたいな速さで駆ける短水路、泳法はバタフライ。水の中でだけは別人でいられた。賢くなどなく、容姿に見映えもせず、性格も暗くして、ずっと小さな生きものを続けている私が、私を手放す事の許された場所。
 幼い頃から海やプールが一番の友達だった、水は好きだ。明るくても暗い。優しくても哀れみじゃない。何も言わず、何も訊かず、ただちょうど、全く過不足のない私一人分ぴったりの空間を用意してくれる。この心はきっと体の生まれを誤ってしまい、私は肺呼吸だった。神様の慈悲が世界のどこかにあるとするなら、それは陸にも雨と言うものをくれた事に思う。
「……コーチ、タイムは」
「喜べ、末光。五六秒一九だ。この調子なら、大会も決まりだな」
「一九……そう」
 それでも私は歯噛みする。速い。非公式であっても自己記録タイに変わりはないし、競う相手が同じ高校生でなくたって、まず間違いなく速い。けれど。
「ねえ、みずき」
 プールサイドに上がる。安息から離れた体が、揺らぎながら、私のものに戻ってゆく。小さく呟いたのを、彼女だけが聞き取った。
「……分かっているわ。納得していないのでしょう、まどか」
「うん、足りない。だって私、まだ、」
 届き切らない。
 まだ、呼吸が同一にならない。
 
 帰路は折よく小雨、傘を手にぶら下げて歩いた。五月が私を徐に濡らす。今行き違ったレインコートの子供が、何となく、私を振り返った気がした。
「持って来ているなら、差せばいいのに」
「……いいの。私の事は気にしないで」
「そ。もう止めないわ、好きにしなさいな」
 理解者は言った。そして何より、最初から止める気がないのは、私が一番知っていた。
 みずきとは、随分のつき合いになる。……あの時は驚いた。長らく身を置いていたスクールから所属を移した後、一三歳のプールサイド。交友関係が少ないのは当時も相変わらずで、ふと耳を擽った声が、まさか私自身に向けられたものだったなんて。と言うよりも、そこには私一人だと思っていた。声のする方を探って私は認める、確かにみずきは、そこにぽつんと存在していた。
「みずきは、いつまで一緒に居てくれるの?」
「あら、急にどうしたのかしら」
「……みずきだけだから。私に友達なんて作れないし。近寄っても来ないし」
「私が作れたじゃない」
「それは、……さ。違うから、話が」
「まどかが望む限り、いつまでだっていいわ。ほら」
 私の家はもう目前にあって、確認みたいに、一度、足を止める。
「ちゃんと拭かなきゃ駄目よ」
「……分かってるよ。またね」
「ええ、またね、まどか」
 別れを口にする時は、またね、で必ず決めていた。約束めかせた言葉なんかにしなくても、どうせ実際すぐ会えるのに。ゆっくりと手を掛けるぎこちない動作、どうしてか私は玄関扉の音が苦手だった。かちゃり。
 刹那を立ち尽くす。背後で、扉は勝手に閉じてゆく。
 靴が湿っているのを、何かの代償の様に思った。
 やがてその音の二回目が鳴った。
 
 煩いのは嫌い、人の視線も嫌い。私が推して大会に出場するのは、証明だからだ。形として記録に残る、それは、私がどれだけ水になれたかの。
 エントリー種目は、四〇〇メートル・個人メドレイと、一〇〇メートル・バタフライ……だけ。やや、奇異に映るのだろう。自由形は完全に無視し、バタフライですら五〇や二〇〇には行かず、それでいて突然、メドレイは四〇〇でやる。個人メドレイが専門ならともかく、私の本命は違うところだ。別に他人の見方はどうでもいい、私はそんな事知らない。
 他に何も必要のない、ただただ競泳の為の泳法。精度を問われる美しいフォーム。その孤高の感じにも今は惹かれるし、ずっと愛しているつもりだけれど、幾つかの瞬間には、耐えられない程嫌いにもなった、つまり――出来ない自分に対する嫌いの転嫁。
「……まどか」
「やめて、聞きたくない」
 大会〇日目、公式練習。私は乱れを起こしていた。
 目指すものがある。直前まで、極限まで、今この瞬間だって、私は自分にとっての理想を追い求めている。
 五六秒一九。圧倒的な、私の中の最高記録。けれど可能性はまだ先にあって、その端緒は掴んだ筈だった。私はもっと、水になれる筈だった。
「末光、調子悪いのか? 無闇にやるな、少し休んだらどうだ」
「……そう、します」
 なのに、離れてゆく。何度やっても食い違う。呼吸が合わない、他の選手ばかり、理想に近く感じてしまう。焦りは全て結果として表れ、苦しみの一方に偏った。足りない。届き切らない。気持ち悪かった。私でも水でもない、何かに背いた塊が、勝手に泳いでいるみたいで。
「……どうして、みずき。どうしてよ」
「もう、分かっているんでしょう?」
「分からない、分かりたくもない。私の居場所、ここだけなんだよ。ずっと続けて来た。泳ぐ事しか取り柄がなくて、水の中だけが、末光まどかをやらなくてよかった。なのに……もう、ここまでなの? どこまで行っても、私が邪魔をするの?」
「違うわ、まどか。――逃げないで、ちゃんと聞いて」
 ――全ての出会いには意味があるらしい。
 勿体振ったかと思えば、それを、みずきは呟いた。
「急に、何」
「そう言う名言なのよ」
「……ふうん、誰の」
「孔子」
 こんな時に馬鹿みたいだ。頭は同レヴェルなんだって、ちょっと安心する。
「もしそうなら……きっと、全ての別れにも意味があるのよ」
「ねえ、本気で言ってるの?」
「あなたの考えている事、私には分かるわ。逆だってそう、私の考えている事、本当はあなたも理解している筈。大丈夫よ、だって」
 悲しくなるくらい、輝いた声だった。
「あなた、綺麗に泳ぐもの。まどか」
 
 いつまで一緒に居てくれるの、なんて、酷い問い掛けをしたと思う。私が口にした時点で、みずきには伝わっていた事なのに。
 泳いでいる間だけは、別人でいられた。末光まどかじゃなく、私は、みずきとして。
 深層心理、だったのだろう。あの出会いは意識的なものではなかった。彼女はそこに、私の中にふっと現れて、変身願望を叶えてくれた。私のもう一つの人格と、イマジナリー・フレンドの中間みたいな、そして、水の擬人化とも言うべき彼女。私が愛した水のある空間だけに、みずきは存在し得た。
 いつも同一を目指していた。どうしたって体は私のもので、泳ぐ時には必ず、私がみずきに呼吸を合わせた。委ねる、理想、水そのもの。それは小さな輪廻だった。明るくても暗い、優しくても哀れみじゃない、その世界へ飛び込む度に、私は生まれ変わった。けれどやっぱり、私たちは完全に重なる事が出来なくて、記録は、限度に見えてしまう。
 二日目、競技順は女子・バタフライ一〇〇メートルの予選へと巡る。スタート台、私は目を閉じる。
「いよいよね。応援しているわ」
 呼吸も、意識も、私のままで。最初から完全に重なった、私と言う一繋ぎの存在で。
「信じて、あなたの理想を」
 水のある空間で、私が全てになる。そこにみずきは、もう居なくなる。
「まどかにとって、私は理想として作られた。でも、あなたの得た実力は、既に届いているんだもの。……後は私じゃなく、あなた自身に体を委ねればいい。あなた自身が、理想になる。気にする事はないのよ、だってそれは、あなたが水になれるって事――そして、私になるって事なんだから」
 合図員の掛け声が響いた。
「消えないわ。私たちは、あなたの目指した同一になるだけよ」
 その時を待つ。空気を強く吸い込んで、
「行ってらっしゃい、まどか」
 号砲が鳴る。台を蹴る。水面が見える。
 私が、私に、
 輪廻する。
 
 
 ――弾けて消えてしまう前に、私は短く、それを伝えた。
 ありがとう、みずき。
 私、生まれ変わるから、またね。
 
 ええ、まどか。
 また来世で。


 あなたには「弾けて消えてしまう前に」で始まり、「全ての出会いには意味があるらしい」がどこかに入って、「また来世で」で終わる物語を書いて欲しいです。
#書き出しと終わり
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