ギルド(短編・2/2)

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「いよいよ、本当かも知れねえと思えちまったよ」
 今はまだ辞めません、改めてそう告げたのはこの間だ。思想めいた話はしたくないし、マスターも察してくれた。そもそもマスターだって聞きたくはないだろう、気づけば濁っていた水槽の中身みたいな正義感や偽悪について。
 オレと同様、現場の目撃者から情報を得たらしいマスターの話だった。今回の被害者は何かしらの種明かしも出来ない普通の大学生で、しかし、オレが現在進行形で取り掛かっていた仕事の依頼者だ。彼の数字は、0。
「実際『おとなりさん』へのアクセスに成功してんだ、この街の仕組みは知ってんだろう。とは言え当然だがマエはねえよ、0だ。で、俺はこれまでのホトケさんについてもちゃんと嗅ぎ回ってみてたんだ、クソを探す犬よろしくな。……マエについては白っぽいのも居たが、どうにも根っこが黒そうな連中ばっかりだ」
「そう、ですか」
「どうしたよ、興味ねえか?」
「ワイド・ショウにでも垂れ込めば大受けだと思いますよ。ただ、犯人捜しをしてる訳じゃないですからね、オレは。……それに、」
「何だ、勿体振って」
「……はは。そうじゃなくて、もう休憩を終えるべき時間ですよ、マスター」
 人員が不足している、と言う程ではないにせよ、夜に蠢くグルナードの性質を思えば、ホールでは足立さんが、カウンターでは篠木さんが忙しいだろう。
 この街と、バーと長く運命を共にして来たマスターには、なまじ多くの情報が入るだけに、野次馬的な部分がある。決してネガティヴに捉える訳ではない、それを補って余りある魅力が彼に備わっているのも、ここで育ったがゆえなのだから。
「岬に窘められちまったら、どうしようもねえなぁ。……もし引退したら、お前みたいなやつに店を任せたいんだが、いつか去るんだろうよ。ああ、泣き落としじゃねえぜ。お前はお前を生きろ、止めたりはしねえさ。それが『お前の為』にとは言わねえからよ」
 そうだ、いつだってマスターは些細な心の動きに鋭い。それでいい。
 まだ安らかな嗅覚だから。
 
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 部屋、四方の壁に対して、広いベッドを斜めの配置に取るホテルだった。諸々備品が並ぶ三角柱状のヘッド・ボード、音楽や照明の操作パネル。そうやって手の届くものの中に、上体を起こした由希さんの、不健全な雪像みたいに艶めく小さな背中がそっとある。
「お願い、したいの」か細い声だった。「一晩を、つき合って欲しい。後腐れとかなしの……本当に、一晩限りでいいから。……分かるかな。こんなお願い、する事」
 恋愛の出来ない人種が居て、それは周りでもたまに見つけるし、オレもそうだ……そして。最後までキスをしなかった。別にオレとしては、彼女が求める限り、全て従うつもりでいた。思えばあんな声、あんなに切実な、上目遣いでもする様な頼み方をする人じゃなかった筈だから。けれど、最後まで。
 珍しく一人の由希さんだった。「アマレット、ストレイトのそのままで貰える?」。昨夜、誕生日を祝って貰った雰囲気は消え失せて、注文さえ普段とは違う。そもそもいつもはジン・トニックだとか、様子見みたいな理性的な一杯から始める。
「お待たせしました、どうぞ」
「……秋思郎さん? これは?」
「お気になさらず、私からのサーヴィスですよ」
 スライス・サラミにライムを絞った。お通しとして、ナッツと乾したチーズのミックスは置いてあったが、それだけでは、アマレットに彼女の機微を溶かしてしまい過ぎる。
「……何かありましたら、遠慮なく。私は、ここに居ますから」
 数分後の事だ、由希さんがグラスを空にし、唐突な申し出をしたのは。勢いだとは思った。建前に、客と店員の立場もある。にしても、由希さんだって弁えている筈だった。
「銘柄、変えました?」
「……敬語」
「え? ああ、ごめん」
 口調を正す様に命じられていた。この日限りの約束。丁寧な言葉は苦手だったのに、気づくとすっかり染みついて離れない現状がある。戻る場所はない、オレが作って来なかった。求めれば、別のどこかへ行くしかない。
 理由は尋ねなかった。それが今、共に時間を過ごす証明でもあった。駆け引きは一切ない。別に自分自身はどうだってよくて、ただオレは、彼女の望みを叶えるかどうか、そのどちらが彼女にとって幸せになれる、或いは不幸を和らげられるかどうかを基準の全てにして決めた。
「……ねえ。後腐れなし、って前提だから、言っていいかな」
「いいよ、気にしないから」
「秋思郎さん、凄く理想的なの。私の中で、……他の人にもそう見えるんだろうけど、男性として完璧な、理想。見た目は重要じゃないけど、顔とか身長とか、いいプロポーションだって持ってるし、優しくて穏やかで、いざしてみればセックスも一〇点満点って感じだったから、改めて理想だなって、そう思ったの。素敵だった、何もかも忘れられた」
「……そっか。忘れなきゃいけない事って、沢山あるからね」
「秋思郎さんにも?」
「オレにも、誰にでも、だよ。一本、貰っていい?」つい最近まで、由希さんが吸うのはウィンストン・キャスターの五ミリだった。詮索するつもりはないけれど、もしかしたら、倍になるピース・ライトの重さを選んだ事、忘れたいものと関わっているのかも知れない。
「うん。軽くシャワーだけ浴びて来るから、その間、何本でもお好きにどうぞ」
 律儀に服は畳んであって、素肌のままの由希さんがバスルームへと歩み去る。濡れやすかった彼女の下着だけ、やや強引に、乾燥機の上に直接置いて。
 金木犀はほんのかすかな残り香になった。彼女が戻るまでの手持ち無沙汰、オレは少し思い立って、鞄の中身を探る。何でもない小物類、黒のネックタイ、それから――綺麗に似せて作られた、お守り。よく出来ている、ただそんな感想だけを抱いて、光に透かすみたいに暫く眺めてから、しまう。
 残っていた五本の煙草は、全てオレが吸ってしまった。
 
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「聞いたかよ岬、逮捕状が出たっての」勿論だった。警察は、Y市内に住む一六歳の少女が犯人だと断定した様だ。ついさっき速報が飛び込んでからきっと、激化の一途を辿っているだろう。ただただ、喧騒の遠い喫煙室。ふと目をやればマスターの銘柄も変わっていたけれど、それは単に、客の忘れものをくすねたからだ。「笹島美譜、ネットじゃもう名前まで出ちまってんぜ。……まあ、デマかも分からんが、減らねえわな、こう言うのは。にしたって流石に読めねえよ、逮捕状は事実だろ? 女子高生が八人もなぁ。幾らこの街が堕ちたってよ、限度があるだろうに」
「……マスターは、どう思ってるんです?」
「何がだ、人殺しがか? ……哀れだよ、悪いとか恐いとか以前にな。世間一般の感覚を持ち出すんじゃねえが、どんな理由があっても許されねえ事を、理由があるからやっちまったやつらだ。逼迫してたのでも、快楽でも、だろ。……『理由』さ。別にこれは同情とも違ってな、ただただ哀れに思うぜ、俺はよ」
「ええ、そうですね」
 一欠片でも分かるだろうか。――理由。例え粛清の様な意図だったとしても、オレは最後まで納得し切る事はないと思う。けれど少なくとも、そうではなかった。それなら数字で表された彼の0が、食い違ってしまうから。悪人を裁いた、と言う印なら、わざわざ「前科0」なんて記さずに、オレだったら彼の明るみに出ていない罪状でも並べる。
 窮屈になったんだ。多分、それは合っている。人間の形に耐えられなくなって、けれど死なない限り、人間の形で続いて行く。答えが、結果が、オレと正反対なだけで。
 誰に連絡を取るのも憚られた。少し考えてから、由希さんへとアプローチを図る。返信はやがて届いた。
〈今、中央都市公園の喫煙所に居る。葉月と、一緒に。〉
「……マスター」
「んだよ、訳ありみてえな顔して」
「急用が出来ました。今から休みを申請したら怒りますか?」
 
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 チェインで閉ざされただけの入り口、それを越えて、一角に設えられた喫煙所へと向かう。こんな街が良夜から秋めく。死んだ様な体裁で、殆どが影絵になって、季節ばかりが知らない振りで訪れる。外縁は背の低い草が並び、小さな階段を上がって内側へ入って行くと、木立の先で透明な、蛍の遺伝子みたいな薄明かりを帯びたあの場所に、二人が見えた。気が早い老人の所作で、まだ辿り着かない内に煙草を咥えてしまう。マスターからのつたない餞別。他人の味に、火を点ける。
「いらっしゃい、秋思郎さん」
「こんばんは。どうしてこんなところに?」
「葉月が、話をしたいって言ってね。当たり前なんだけど、この時間帯は誰も居ないからちょうどいいんだって、ここに」
 二人は知らない筈だった、オレと2の彼との遭遇を。でもそれとは別に、選んだだろう。意味があって、目的があって。
「ちょっと吃驚したな。もう、全部知ってるの?」
「いいえ。寧ろ殆どの事は、分かりません」
「でも、ここに来た。どうして?」
 いずれ帰結する歯車の一周を心得ていた様に、葉月さんも由希さんも、それは泰然として動じなかった。今なぜ唐突な連絡を取って、二人の密会に加わっているかと言う事。尋ねられなかった。悟っていて、暗黙の了解だった。グルナードでも見慣れている、まるで崩さない、あの、座標通りの微笑み。細い目の底知れないもの静かさ。葉月さん、あなたは。
「……不安な一致があったからってだけ、ですよ」
「何か、気づいたんだね?」
「別にその点が線になったりはしてません、だからこそお伺いしたいんです。……琴乃さんから聞きました。由希さん、あなたの出身はS高だって」
「うん、そうだね。琴乃にはそう答えた」
「……多分、『今自分が在籍する高校』を言ったんじゃないかな、と。よく知らない適当な高校を挙げた結果、何か矛盾を出してしまわない様に。その意味では『大学に行ってない』のも同じです。ありのままの本当、但し『行かなかった』のではなく――『まだ』だった。身分を偽ってする生活の上では、余計な疑いを生みたくなかったんでしょうから」
「急にどうしたの? 秋思郎さん」
「最初にグルナードへ来た時見せて貰った免許証には、二四歳とありました。先日があなたの生まれだとすれば、今は二五歳。そして、S高が共学になったのは六年前、それまでは男子校だった。年齢で言えばあなたが一八歳から一九歳、通常なら大学一年生の時です」
「……ああ、それで、か」
 互いが長い呼吸を挟んだ。ふと仰いだ空に月は満ち終えている、これから少しずつ、隠されて行く。
「違っていればいいんですけどね。……一つ、謝らなければならない事があります」
「秋思郎さんに? ……、何かな」
「確かめました、あの夜に、あなたの鞄の中身を。免許証は確かに、偽造のものだった」
「見て分かったの?」
「ええ。私も同じ偽造技師、『おとなりさん』ですからね」
 初めて由希さんの顔に狼狽が横切った。同時に葉月さんの気配も変わったけれど、その視線が示すのは、関心の色だ。そして続け様に放つ言葉で、気づかされてしまう。オレよりも早く由希さんを呼び出した、裏側。
「……何も一人しか居ない訳じゃないよ、『由希』」
「葉月さん、あなたも、」
「まあ……ちょっと悔しいかもな。頑張って作ったのに、そんな簡単に見破られちゃ」
 オレも、内心では揺れていた。ここに存在するのは誰も本物じゃない、薄暗く膜の剥がれ始める、今までの関係。
 きっと「葉月さん」は覚えていた、「由希さん」になる前の彼女を。顔写真も見ている筈だし、何よりもそれと同じ本人が、刻んだ通りの名前で現れたのなら、全て。けれど違っただろう、直接対面する訳ではない依頼者が一人としてオレを知らない様に、由希さんも、そして、二人を引き合わせた琴乃さんも。
「だから、ですか? 誕生日プレゼントを選ぶ時、あなたは」
「約束通り、誕生日は受け渡し予定日に設定してあった。それはそれで初めて『由希』になれた一つの記念日なのか、後ろめたい意識にさせてしまうのか……『由希』にとってどっちがいいのかは判断がつかなかった。『秋思郎さん』の正解。だから避けた、誕生花や誕生石は」
「……そっか。そんな事考えてたんだ。『葉月』は私の嘘、ずっと知ってたんだもんね」
 それぞれの名前が、虚しく響き合う。もう随分疲れてしまった。構わず地面に座り込み、もう一度、指先に新たな火を宿す。
「……由希さん、あなたの鞄には他に、黒のタイがありました。いつも持ち歩くものの中で、浮いていて、普段使いの品とは思えなかった。それに……少しだけ気になった。あなたの言い方、私に対して『一〇点満点』って表現したのを、覚えてますか?」
「あはは、本当だ。……言った、確かに言っちゃったね」
「別にこんなものは、証拠でも何でもないんです。ただ、こんなものの一つ一つが、偶然にも近い像を結んでしまった、あなたは――笹島美譜さん、ですか?」
「秋思郎さん」それは、さよなら、の口振りだった。「その名前で、呼ばないで」
 
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「まだ、葉月の方が優しかったよ。『由希がやったの?』って」
 風が大人びて来ていた。喫煙所の面した細道をワゴン車が一台、ぐん、とわずかに音を立てて過ぎ去る。由希さんは赤いボトルの紅茶片手に、また戻したらしいキャスターを吸った。彼女が「由希」を手に入れてからだろうか、煙草や酒は。今更咎める訳でもないけれど、未成年の体を自分で毒する様子はどこか見るに苦しい。笹島美譜が抱える罪に比べれば小さな筈なのに、却ってそれを心配してしまう。
「お二人はもう、話し終えたんですか」
「そりゃ。私じゃなきゃ、二五の女を疑ったりしない。疑った理由を喋るには、身の上を明かさなきゃ意味が分からない。でしょ?」
「……全部、ご存知なんですね」
「聞いた。殺した理由も、『由希』の望みも」
「望み?」
「話していいの?」
「……任せるよ。秋思郎さんもきっと、それを聞きに来たんだし」
「どうかな。私程に悪いやつじゃないと思うけど、この男」
 不穏ですね、軽口の様に呟いてみれば、それが最も虚構めいた音だった。葉月さんは一度腕時計を見て、真相を語り始める。ごめんね、由希、その言葉を合図に。
「……この街で偽造技師の存在を知った笹島美譜は、まだ良心的な大勢と同じ、『違う自分』への憧れから、うちに免許証を依頼した。要はそれまでの自分が嫌いだったって事。……ただね、分かると思うけど、高校生が簡単に払える対価じゃないんだ。だからこの子は、所謂『援助交際』で資金を集めた」
 ああ、ちょっとした納得がある。そして既に、繋がりが見出せている。
「その中で偶然、上手いのが居たんだってさ。してみるまでは相手が誰だろうが、仕方なく、嫌々で、だったんだけど、まさに『我を忘れる様な』、そこで本当に気持ちいいセックスを教えて貰った。それが、体に刻み込まれた」
「……今もまだ、残るくらいに」
「そう。やがて免許証が完成して、『由希』としての生を手に入れた。笹島美譜の人格なんて捨てたい程だったから、『由希』で居られる事、『笹島美譜』を忘れられる事は常に求めた。煙草もそう。アルコールは吃驚するくらい強かったけど、甘いのばっかり飲んでたでしょ? 体はどうしても一つ、好みは変えられない。でも、重要なのは酔う感覚の方。……勿論、煙草や酒だってタダじゃないんだ。男を釣るのにだけ女子高生の肩書きを使って、援助交際も続けた。実際、セックスだって大人の味だし、ちょうどよかったんだよ。金も稼げるし、『由希』として存在する為の欲求も満たせる。……でも」
「理想とは、違ったんですね。気持ちよくもない、嫌な思いをさせられる事もあった」
「……そんな時は、笹島美譜の影がちらついた。由希がしたいのは満足の行くセックス、じゃなきゃ自分が由希で居られない。耐えなきゃいけない様なセックスなんて、笹島美譜のやる事だったからね。『由希の否定』だったんだ、この子にとっては。ぶっちゃけ動機は、『セックスが下手くそだった』。纏めればそう言う事だよ。一〇点満点で言えば五点以下、それが由希と笹島美譜とを分けるラインだった」
 犯行が屋外だったのは、当初から一貫していた。大抵の理由は、歳の若い女子高生をホテルに連れ込むのが難しかった、だろう。元々が相手の趣味かも知れないし、彼女がそんな相手を狙ったのかも知れない、それを、どちらが言い出したのかは別にして。特にこんな喫煙所の裏の木陰、誘われても通る事はまずない。二つの意味で、きっとここは現場だった。
「……で、望みと言うのは」
「そこなんだよな、話すかどうか」不意に葉月さんは深海みたいだった双眸を閉じて、その刹那、ついに一切の心を分からなくする。
「秋思郎さんが関わる意味はないね。犯行については過去の情報、由希の望みは未来の行動。理解して貰える?」
 随分と思わせ振りなアクセントをしていた。鍵穴に無理やり重みのある何かを差し込もうとする様な、理解、の一語は。
 だからオレは尋ねる、彼女の持つ答えが、錠の運命を決める。
「これだけ、教えて下さい。由希さん、あなたは今この瞬間も――『由希さん』、ですか」
 彼女はすぐにでも眠ってしまいそうな、遠ざかる星の雰囲気を帯びていた。
「……勿論だよ、私は由希。名前も存在も、確かに、私」
「ならいいんです。分かりました。……何かありましたら、遠慮なく」
 優しさでも憐憫でも、もしかしたら、特定の感情や価値観ですらなくて、ならば光も罰も心も、置くべき駒はここにないんだろう。
 けれど、オレは。
「私は、ここに居ますから」
 
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 やがて命を沈める為の、深い穴が口を開けた。排熱し切った夜の、明かりもない雑木林。一本の道だけで繋がる、世界から秘密にされた様な場所。大丈夫、葉月さんがそう言って、準備の必要はなかった。ヘッドライトやショヴェルの、そんな予知めいたものたちは、既にトランクの中で活躍を待っていた。
 最後の会話は簡素なものだった。じゃあね、秋思郎さん。それは彼女がグルナードを出て行く時の挨拶で、ではまた、なんていつもの返事が、オレには出来ない。
「どうせ由希、このままだといずれ捕まるでしょ?」全貌は、移動中の車内で語られた。「警察の前じゃ、偽造免許なんて無意味だから。でも、捕まったら終わりなんだ。あ、死刑とか、社会的な話じゃなくてね。……この子は由希で、犯人は笹島美譜。だけど体は一つだし、実際には同じ人間。そして捕まれば多分、永遠に笹島美譜として扱われる。消されるんだよ、『由希』が」
 車で来ていた葉月さんがそのまま運転を担当して、オレは対角の後部座席だった。小柄の由希さんは助手席にすっぽり隠されて、頭の先も見えなかった。半分になった紅茶を一度、葉月さんへ手渡した時が、網膜で薄明かりの様に揺れる。
「……よく、受けましたね。こんな話」
 お疲れ、一服でもして来ていいよ。悩ませる余地を与えない葉月さんだった、オレが場を外すまで、何も起こらない事を示唆していた。
「何でだと思う?」
 あの小さな紙袋、中身は黒のネックタイだった。「誕生日」の数日前。まだ事態は動き出していなかった筈なのに。いつから、だろう。もしくは今日と無関係に、普段から使う機会があるみたいな。
「明らかなのは、私が善人じゃないって事」
 赤く燃えて短くなる煙草の、暗喩めいた一時。いつまでも繰り返してはいられない、再び伸びそうになった手を止めてオレが戻ると、二つのヘッドライトに照らされて、それは終章に差し掛かる悲劇の舞台だった。立ち会ったどの犠牲者よりも生々しく映るのが人間のエゴだとするなら、その性は哀れむべきものに他ならない。
「……困るんだよ。もし殺人鬼・笹島美譜が捕まって、偽造証書が見つかったら、ね」
 由希として死に、笹島美譜を殺す。彼女が最後に託した望みとは、「誰にも見つからないところに、自分を埋めて欲しい」だった。そして葉月さんには覚えがあった、叶えられる地の存在に。
 由希さんは息絶えていた、既に、ちゃんと。頬に吸われて、そっと両手を添える。肌触り、花の香、肩から前へ一房落ちて、音色みたいな髪の揺らめき。唇が歌う形をしたままで止められ、そこに呼吸はなく、瞼は黙して夢になる。せめて森に、星月の光が届かなくてよかったと思う。
「さ、終わらせようか」
 埋めた後はもう二度と、来ないで欲しい。由希さんから直前につけ加えられた条項は、忘れて、とも、忘れないで、とも聞こえた。彼女からまだ体熱はまだ引かない。存在の形、質量、その全て。可能な限り優しく降ろしたつもりだった。ついさっき、オレの背中で閉じたばかりの世界、感情を潰して、汚れても尚美しいものとして。
「秋思郎さんこそ、どうして受けたの?」
「……、オレは……」
 明かりを消した命、土を被せる事の痛ましさ。気づけば傍らに置かれていた仮面だった。あの街で期待通りに鈍らなかった感情があって、強引に鈍らせる為の、身に着けたやり方。だから上滑りする、させる。
「私の観察じゃ、秋思郎さんは真っ暗だけど、真っ黒って訳じゃない。不思議だよ、罪にも死にも目を瞑った事が。……答えなくていい、でも、訊くよ。あなたは人間? それとももう、人間はやめちゃった?」
 葉月さんの声が、残酷な湿り方をしていた。
「ねえ、どっち?」
 言葉を、返さなかった。
 
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 日常は冗談みたいにグルナードのカウンターからも続いて、三日が経った。ディサローノ・アマレットの琥珀色が、道連れみたいな深さで煌く。マスターにも勿論、打ち明けていない。悟るだろう、それでも奥底までは届かないだろう、それは、誰も。
「由希、来てない?」
 偽者ばかりに囲まれて、琴乃さんだけが最初からの実像だった。闇の街に暮らし、街の闇に触れないところで、天命の様に彼女は自分を全うしている。恥ずべき事はなく、ただそれが時に、例えばこうして、紐解かれない真実を更に向こう側へとする。
「最近はお見掛けしませんね。忙しいのかも」
 この嘘は白々しくていい事だった。数え切れない程の経験があって、結局、オレが慣れたのは大いなる影の秘めた理なんかじゃなかった。だから今は、別によかった。
 琴乃さんにX・Y・Zを教えたのは由希さんだった。ラムとキュラソーの軽やかな甘さ、アルファベットの最後である事から、「これ以上のものはない」を意味するカクテイル。また、同様の理由で「最後の一杯」として頼まれる、そんな小話に耳を傾けていた、まだ新しかった頃。いずれも俗説で、実際の由来は判明していないけれど、琴乃さんはそれを好んだ。
「……ふーん、そっか。やっぱそうなんだね」
 だから自然に、訝しんでしまう。今日の一番の注文がX・Y・Zである事、そして同時に、ゴッド・ファーザーを頼んで、そのままオレに差し出した事。
 グラスが空になるのは、あまりにも早かった。
「本当、だったんだね」
 置手紙みたいな囁きだけ残して、琴乃さんは会計に篠木さんを掴まえる。小さな耳鳴りだった。窓の外で崩れる天気と彼女の横顔が、感覚を支配し始めていた。行き場をなくして、ふと我に返る時、心を構える猶予なんてなかった。
 琴乃さんは一瞬振り返り、店を後にした。
 じゃあね、秋思郎さん。
 
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 一〇月一四日、それは知る者にとっては分かりやすく忌日だったし、多分、由希さんにとっては記念日だった。今この季節、薄らいだ関心たちの興味を誘う様に、未解決事件は特集として報じられる。
 連なる悲劇の全てを飲み込んだ一帯は真昼でも暗澹として、耽美にはなれなかった。手を合わせようとも、赤いラベルの安い紅茶を供えようとも思わない。ただ、訪れる。訪れて、由希さんの為の日と、いつまでも巡って来ない罰とに向き合っている。最初に彼女との約束を破った時、金木犀の香りを幻覚した。以来もう得られたものはない、けれど、そこでは木々が寝息の代わりをする。きっと彼女のものだけではなくて、他の幾つもの、オレの与り知らない業の分まで、呼吸する。あの日から三度目にして風景は定まったまま、理は平穏を保った様子だった。けれど長い間のどこかでは、オレみたいな誰かが足を運んだ事もあるだろう。生死を問わず、罪人の為にある様な森林だから。
 肯定も否定も出来なかった。無意識的な贖いのつもりだったかも知れないし、敢えてあの街から抜けてみる事が、却って首を絞める様な気がしたからかも知れない。オレは半年程をグルナードに居座り、そして辞めた。もう二度とここには戻んじゃねえぞ、示し合わせたみたいにマスターは言った。彼の言う「ここ」が「この街」を指していたのなら、彼との約束も守らなかった事になる。
「元気してた? 秋思郎さん」
 不意に昔の名で呼ばれて、自然と意識が還って行く。
「それなりに、ですかね。葉月さんは?」
「ま、変わらないな。この腐った柘榴みたいな街で、身の丈通りにやってるよ」
 葉月さんからの慮外の申し出だった。ダイニング&バー・CYT、例の「もう一軒」の店舗であり、彼女の拠点。別のバーで知り合った、琴乃さんが言っていたのは、ここの事だったんだろう。
 ドライ・フルーツの盛り合わせと、スコッチ・ハイの二つ並ぶテイブル。吸い殻二本分が、先に待っていた彼女の時間だった。
「……見る度に変わるね、秋思郎さんの銘柄」
「決まったものがないんです、ほら」キャメルのケイスを開ける。手前側で分かるものだけでも、白やチャコール、カプセルのマークや緑の線が入ったメンソールのフィルターが覗いた。中身を無作為に詰め替えて、アソート様になっている。「色々と分けて頂いて、色々な思い入れがありますから。元々自分の決まった銘柄もなかったので、こんな風に」
「面白い趣味してるね、やってみてもいいな」
「……今日は、どうして」
「いや、特にないよ。共犯者が息災かどうか、顔でも見たくなっただけ」
 ――哀れだよ。あの声がふと、ボトル・レターみたいに記憶から流れ着く。オレたちの理由は、確かだっただろうか。
「つつくのはよそうか。終わった話、誰も知らない話なんだし」
「……琴乃さんは、何かご存知の様でした」
「ああ。ぼかしてはあるけど、少しだけ喋ったから。言ったでしょ? 私は善人じゃない」
「お元気にしてますか、彼女」
「帰ったよ、鹿児島だってさ。その意味じゃ、正しい事をしたかもね」
 きっと曲がっている、オレも葉月さんも、善悪の定規が。けれど少なくとも、その尺度を幸せか、或いは不幸の最小化に置いた時、琴乃さんにとって一番の結果に思う。オレには、そう思う事しか出来ない。人間を、オレは誤ってしまうから。
 片手の指に収まる程の、場違いな他愛ない会話を重ねた。何かから目を逸らしている訳じゃないから、尚タチが悪いのかも知れなかった。葉月さんは終わりの一杯をギムレットにして、あまりにも分かりやすい別れの予感だった。シー・ユー・トゥモロウ、「また明日」。バーの名称とは似つかわしくない、だからこそちょうどいいバランスで、二人の夜は跡形もなく崩される。
「今はまた、違う名前?」
 店先で交わす、最後のやり取り。葉月さんは知らない、岬秋思郎の免許証は、彼女と一緒に埋めてしまった事。それはお守りだった、誰にも見つからないと言う望みが、永遠に叶い続ける為の。
 もう錆び掛かって軋む答えを、やっと手渡す。「ええ、どうやら、人間は辞めてしまったので。名前って、人間の識別コードみたいなものですし。……葉月さんはずっと、葉月さんなんですか?」
「……。あのさ、何か勘違いしてない?」
 ふ、と耳鳴りがする、覚えのある前兆。待ち構えていた様な風が掠めて、感じる筈のない痛みが頬に残る。
「確かにお互い、そんな仕事をしたけどさ。……あなたと違って、私は生まれてから一度たりとも、葉月じゃなかった事はない。幸せも罪も全部いつだって私のもの、名前も存在も、私は葉月。私はずっと、私を生きてる」
 息が、出来ない。
「もう答えを聞く機会はないだろうけど、また、訊いてみようか」
 この街でする呼吸の、本当のやり方が、分からない。
「今のあなたは、あなたを生きてる?」
 反響する、気づけば背を向けて去って行く彼女の、直前に残した声。
 ――じゃあね、「秋思郎さん」。
 それは心臓の最奥にある、たった一つでしかない細胞の様な何かだった。
 感触した。
 それが今、ぱちんと弾けた。


 ■

 あなたには「守れない約束があった」で始まり、「手のひらから零れ落ちた」がどこかに入って、「ぱちんと弾けた」で終わる物語を書いて欲しいです。

#書き出しと終わり
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