「家庭教師に月40万円」教育先進国の凄まじい現実

シンガポールでは1970年代以降に急速に少子化が進み、現在では出生率が1.2を下回っている。都市国家であることを踏まえ東京と比べれば同程度だが、日本全体よりも低水準ということになる。

シンガポールは1965年の独立当初は増加する人口と失業問題の解決を狙って「子どもは2人まで」というスローガンを掲げ、出産抑制政策を取った。しかし、1970年代に出生率が低下すると、出産奨励へ方針を転換しはじめた。

2001年以降も、Marriage and Parenthood Packageという支援策を年々手厚くしている。しかし、その後も出生率は低迷。女性の高学歴化が未婚化・晩婚化をもたらしていること、結婚したカップルの中では結婚時年齢が高ければ子どもの数が減ることなどが少子化の要因とされている。

また、親になることのストレスの増加やより少ない子どもに投資する傾向も指摘されており、ある論文(※)は165人のシンガポール人女性へのインタビューで、子どもの人数を増やす選択肢が取りづらい理由について、次のような点を挙げている。

・子育てが長期的なものであるのに対して政府の補助金が一時的でしかないこと
・子どもの学術面での成功を確実にするためにはかなりの金銭的投資が必要だと認識していること
・有給産休を取得できても雇用の保障がないこと
・父親の育休取得についても経済的不安から取得しづらいこと

つまり、シンガポール人にとって子育てをするうえでの大きなハードルが、「お金がかかること」なのだ。前回記事では、塾や習い事に追われることによる時間のやりくりについてと、それが女性の就労を阻害する可能性について書いたが、外部資源の利用には当然お金もかかる。今回はお金の側面から見ていこう。

学校は無償なのに?
シンガポールは天然資源を持たず「人材」が唯一の資源として、教育に力を入れている国でもある。シンガポール人は基本的に全員が公立学校に通い、義務教育の小学校は無償、中学校も国民の学費は極めて安い。

では何にお金をかけているのか。小学生の子どもを持つ家庭にインタビューを実施し、匿名で処理することを条件に年収や教育費も支障のない範囲でシートに記入してもらった。

シンガポール人の世帯月収の中央値は約7700ドル(約62万円、2020年)。一方、インタビューをしたのは教育競争の様相を知るために中華系の大卒が中心で、共働きが多く、世帯収入は1カ月10000ドル(約80万円)を超えるケースが大半だった。

この人たちの月の教育費は、申告ベースで500ドル(約4万円)~2000ドル(約16万円)。習い事などの相場はヒアリングしている範囲では、おおむね1時間で30ドル~80ドル(2400円~6400円)程度の幅があり、週4回で1種類あたり、月1~2万円台前後というところか。これを何種類、何人の子どもがやっているかで金額に幅がある。

金融機関の管理職で、小学生の子どもがいるある40代の女性はこう語る。

「私の親の代では片稼ぎでもよかったけど、収入の伸びよりも物価が上がっているから、共働きをやめることは今はできない。学校にはお金がかからないけど、学校では大したことを教えてくれないから結局親は家庭教師にたくさんお金をかける。これが、すごくすごく高い。子どもに教えるのがとても上手だったら専業主婦になることもできるかもしれないけど塾のためだけに必死で働いている親は多い」

家庭教師に月40万円
この「すごくすごく高い」という家庭教師費用の半端ない金額が明らかになっていったのは、中学生のいる親にインタビューをしはじめてからだった。

シンガポールの子供たちにとって非常に大事な試験、PSLE(小学校修了試験)。これを受ける前の小学5~6年生次にかけた金額を聞きはじめた頃、思わず月額と年額を間違えたのかなどと耳を疑い、驚いたふうを出さないようにしながら再確認する必要があった。

士業の仕事に就く中華系女性Auroraさん(仮名)は、小6の長女の家庭教師に払っている月額について「5000~6000ドル」と答えた。日本円で40~48万円程度。場合によっては世界でも高いことで有名なシンガポールのコンドミニアムの家賃より高い。それを毎月、1人の家庭教師に払っているということなのか。

Auroraさんは長女のPSLEに備え、「働きながら(子育てと勉強を見ること)両方はできないから」という理由で、“フルタイムの”家庭教師を雇っていた。フルタイムの家庭教師というと、複数家庭の子どもを並行して教えるプロ家庭教師をイメージするが、Auroraさんの家に来る家庭教師は、Auroraさんの長女“専任”だった。

週5日毎日、長女が学校から帰ってくる昼過ぎから自宅に来て、夕飯を共にし、ほとんど寝る直前まで一緒にいる「もう一人母親がいる、みたいな」存在だという。

聞くとその家庭教師は、もともと友人の友人で、自分も子どもがいる中国出身の女性。中国ではワーキングマザーだったが、夫の転勤でシンガポールに来て、自分の子どものPSLEを終えたあと、することがなかったため当初は「お金は取りたくない」と無償でAuroraさんの娘に教え始めたという。

Auroraさんは彼女の働きぶりを見て、あまりの献身ぶりにまずは時給で支払いをはじめた。ところが家庭教師の女性はAuroraさんの家に来ていない時間帯も、Auroraさんの長女に説明するための資料作成や、長女が1つ問題を間違えれば、その苦手を克服するために似たような問題を持ってくるなどの準備に膨大な時間をかけていることがわかったため、月額で渡すことにした。その金額が月40万円、ということなのだ。

「こうでもしないと、仕事ができない。彼女(家庭教師)が来るようになってから、娘との関係もよくなった。親が自分で教えようとすると難しくて、親子の心理的な距離が遠くなったりするけど、家庭教師がいてくれるから、娘は今も私と近しくて、何でも話してくれる。しかもその人も(子どもを持つ)母親だから、この年齢の子どもをどういうふうに扱ったらいいかもよくわかってる」

Auroraさん夫妻は高収入カップルで、お金のある人のすることはどこの国でも極端——ということだろうか。私はそのあと、このように毎日来る家庭教師を雇っている話を聞いたことがあるかと聞いて回ったが、同じ人物に全科目と母的な役割までをも外注するケースはこれまで見つかっていない。

しかし、Auroraさんと同等の金額をかけている人はそこまで珍しくはないこともわかった。しかも、必ずしも超高収入カップルに限らない。

インド系シンガポール人のSarahさん(仮名)も一人娘の小学校6年生の1年間は、1日に2科目の家庭教師が入れ替わり来るなどして、中国語、英語、理科……全8人の家庭教師(算数だけで4人)を雇っていた。

それぞれの科目は週1~2回あり、すべての金額をあわせると月6000~7000ドルになったという。彼女の世帯月収の申告は夫婦あわせて8000ドル弱。「その1年だけと思って」、可処分所得のほぼすべてか、上回る程の金額を家庭教師に投資していることになる。

中国では高学歴家政婦が人気
高額になろうともあえて家庭教師を選ぶ理由について「自分の子の学びにあわせてカスタマイズしてくれるから」と語る親は多い。そして共働きにとっては、Auroraさんのように、もう1人の母のようにふるまってくれる、つまり家庭におけるケア役割も代替してくれるという理由がある場合もある。

あるとき、シンガポール国籍を取得済みの中国出身の友人が、中国語のニュース記事を私に送ってくれた。Google翻訳と彼女の説明をもとに要約すると、中国の都市の一部で、高学歴家政婦を雇うのが流行っているというのだ。

家政婦を雇ううえで、子どもの教育も見てくれる高学歴の女性が人気だという。新卒で就職活動に苦労する若い女性たちにとっても、家庭教師先の富裕層と人脈を築ける仕事は悪くないとその記事では分析されていた。

勉強を教えてくれ、子どもの状況に合わせたケアもしてくれる。親にしか果たせないと思われてきた家庭内での「教育役割」を外注できる選択肢が出てきていると言えるだろうか?

しかし、ここで、教育役割を外注できるような家庭教師をつけるために必要なのは、お金だけではないこともわかってきた。

シンガポールのHousehold Expenditure Survey(HES)によれば、家庭教師の利用金額はこの10年ほとんど変わらない一方で、塾の利用金額が激増している。家庭教師ではなく塾を選んだ人たちにその理由を尋ねると、「高いから」以外に、「よい家庭教師を探すのが大変だから」「評判のいい家庭教師を確保できなかったから」という声が頻繁に出てくる。

つまり家庭側が優秀な家庭教師を確保するのが難しく、獲得競争が熾烈なのだ。もちろんシンガポールには日本にもあるような家庭教師紹介サイトや派遣サイトのようなものがある。しかし、実際に家庭教師を雇っている人に、どうやって見つけたのかを聞くと、ほぼほぼ「友人や親戚の紹介」だ。

しかも、半ば常識になっているのが、実績のある家庭教師には数年前から唾を付けておいて、今見ている子どものPSLEが終わった途端に、自分の家に来てもらうという「テクニック」だ。

話題の韓国ドラマ「SKYキャッスル」にも受験コーディネーターについてもらうために奔走する話が出てくる。世界中で巻き起こっている家庭教師の獲得競争に頭がクラクラする。

前々回、フランスの社会学者ピエール・ブルデューの「文化資本」の概念について家にある蔵書や触れる芸術などと説明したが、ブルデューがもう1つ打ち出した「社会関係資本」という概念がある。これは簡単に言ってしまえば人脈だ。

シンガポールにおいて、親戚や知人から評判のいい家庭教師を紹介してもらえることは非常に重要だ。結局のところ、経済資本、社会関係資本の有無によって家庭教師を雇えるかどうかが決まっていることが伺え、ここでも恵まれた人がより有利な競争環境を確保していくという格差の実態を見ることになる。

教育への懸念が女性に出産を断念させる
シンガポール人の親たちにとって、もう1つお金の懸念になるのが、海外大学への進学の可能性だ。

NUS(シンガポール国立大学)やNTU(南洋理工大学)は、世界大学ランキングによっては東大より評価が高いことも。学費は外国人の半額程度で済み、親元から通えれば生活費も追加でかからない。そのため、アメリカのアイビーリーグなどを目指す一部のエリートを除けば、シンガポール人の理想の進路は「国内大学」になる。

それが難しいとなったとき、ある程度経済的基盤がある親たちが考えるのがオーストラリアの大学だ。アメリカやヨーロッパより渡航費や学費が安いとされ、距離的にも近いためだ。とはいえ、海外大学に行くと出費は多くなる。その可能性に備えて、貯金をしておこうと考える——。

もちろんシンガポールは大学に行かない人たちにもきちんと道を用意している。お金が心配なら大学に行かなくてもいいではないかという議論もありうる。しかし、教育(学歴)によって処遇が大きく異なる社会で、よい教育を受けようとするためにお金がかかるという状況は、何をもたらすか。

それが、冒頭見た、少子化にほからなない。日本でも、子どもの教育達成を重視し、親の教育方針に左右されるという認識が強い女性ほど、子どもを持つことを躊躇する傾向が指摘されている(本田由紀2005「子どもというリスク」橘木俊詔編著『現代女性の労働・結婚・子育て』)。

シンガポールの場合、さらに「老親の面倒」を見ないといけないという経済的負担も加わることが多いのだが、未婚化、晩婚化、そして子育て世代の経済的不安は、日本とほぼ共通していると言えるだろう。

一方、家計を支える仕組みとしての子育て世代の就労の状況は日本とやや異なるかもしれない。シンガポールでは共働きを維持するためにメイドや外部資源を使うというのと、外部資源を使う費用を捻出するために共働きを維持せざるをえないというのが「鶏と卵状態」になっているようにも見える。

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