見出し画像

小説以外 その4 矢川澄子 いづくへか

2002年5月29日、71歳で自死した矢川澄子の「既刊単行本および『矢川澄子作品集成』(一九九八年、書律山田)、『ユリイカ臨時増刊号 矢川澄子・不滅の少女』(二〇〇二年、青土社)に未収録のエッセイを対象として、彼女の七一年にわたる試行を跡づけることを念願して編集した」という。奥付の日は2003年5月20日で、一周忌にと出されたのだろう。

矢川は女性性とくに「少女」にこだわった人で、かつ「ぞうのババール」やポール・ギャリコをはじめ、多くの絵本や童話、ファンタジーを翻訳し、この分野に造詣が深い。だから『いづくへか』第II章の美学・女性・少女論、第III 章の童話・絵本・ファンタジー論は、その分野に関心があれば、矢川のプライベートに関心がなくても面白く読めるだろう。

この本は出たときに読んだと思うのだけど、この年は忙しかったからか、よく覚えていない。あらためて、久しぶりに矢川澄子の文章をまとめて読んでみると、きれいな文章で冷静だ。知的な女の人の文章だなぁと思う。そんなことにも気づいていなかったくらい、四半世紀前は若かった。そして達意の文章で、この人は名翻訳家なんだ、日本語がうまい人なんだとつくづく納得し、やはりそんなことにも気づいていない(以下略)。

ごく若いころ、野溝七生子と澁澤龍彥について矢川が書いた本を、矢川がどういう人かも知らないで読んだ。甘ったるくナルシスティックなところに辟易し、苦手だと思った。何かで見かけて評論を読むことがあっても、自分の問題意識とは少し異なっていたので、ふーんと頭を通りすぎていって印象にのこらなかった。

それが矢川が亡くなる直前、たまたま朝日新聞で「いつもそばに本が」という3回連載の自伝的な記事の2回目を見かけ、矢川の離婚の経緯が記されていたのを読んだ。それは離婚の原因となった核心について、甘ったるさやナルシシズムとはかけ離れ、夫とおのれの弱さをきっちり見据えて書かれた文章で、衝撃を受けた。記憶だけで書くが、締めは「いまでも私は当時の充実を懐しむ。永続的に見えたかもしれない関係を支えていたのは、こちらの過剰な謙譲だった」。それを読んで、この人はこれからどんな文章を書くのだろうと思っていたら、ほどなく自殺の報道に接し、暗澹たる気持ちになった。その年のうちに出たぶ厚いユリイカの矢川澄子追悼特集号は、私が初めて、収録された全てのものを通読したユリイカだった。

そういえば自伝的小説で、やはり男とおのれとの弱さを見据えて別れを見事に書き切った、瀬戸内寂聴の小説の題が『いずこより』。『いづくへか』と題も似ているので思い出した。1974年に刊行されている。寂聴は1922年生まれ、1930年生まれの矢川より少し年長とはいえ世代は近い。戦前の女性作家や運動家らの充実した伝記小説を書いた寂聴は、野溝七生子が出てくる記事も書いた。その杜撰な記事をきっかけに、寂聴が記事をひっこめても、老いた野溝は妄想的になってしまった。そのことを矢川が本に記していたことも思い出した。

矢川澄子の、甘ったるくもなくナルシスティックでもない文章は、追悼特集のユリイカでも読んだはずだけれど、印象にのこっていない。あらためて『いづくへか』を読むと、声が小さい。口に何か黄色っぽい、クラリネットを吹くときにつかうリードのような小さいふだ、電車の切符を少し小さく厚くしたみたいなものを挟むような感じで話している。なんでわざわざそんな面倒くさそうな話し方をするのだろう。大きい声もそりゃ出ないだろう。そして内容が、ご本人のごまかしたいことではそれほどないからなのか、そこまで甘いとかナルシスティックというほどでもない。というか多少そうでも、こちらもトシをとったからか、読んでいてあまり気にならなかった。知的でもの静かで、少し暗い。それだけならまあ他にもそういう人いるかなという感じなのだけど、この人は過激だ。それがめずらしいし、おかしい。見ようによっては狂気。自由にやりたいとか身勝手とかでもない。何かおかしい。歯車がずれているところがある。直接的には結婚生活、性体験による深い傷がその原因だろうけれど、もっと広い、長いスパンでみたら、やはり近代化、そして思春期に迎えた敗戦の傷だろう。

不思議なのは、この人は日本の伝統文化にくみさないけれど、これだけ外国語ができてヨーロッパの文学や文化に造詣が深いのに、そちらにいれあげて鹿鳴館の人みたいになることもない。高慢さや自分の能力の高さ、外見などへの自負はうかがえるのだけど、欧米人を気取ってそうなっているのではない。

バックにこんなすごいものがついていると虎の威を借る狐にならない。組織の保護もない。ひとりで筆一本で生きている。だからなのか、過激だなぁという印象になる。実際この世代の女性で、高等教育を受けてこの生き方で離婚して職業婦人として翻訳家、ものかきとして一家を成して子供もいなくてという女性は少数派で、過激なのも当然か。 

・・・この世代でこういう文章を書ける女性はあまりいなかっただろうな。
と思ってググッてみた。

矢川澄子は1930年7月27日東京生まれ。

矢川の親しい友人で、結婚して神戸に暮らした、やはり名翻訳家でもある詩人多田智満子が同年4月1日生まれで矢川の没後1年に満たない翌2003年1月に亡くなっている。

神戸つながりで思い出される、阪神間で幼少期と戦時下を過ごした、やはり名翻訳家、随筆家の須賀敦子が、1929年1月29日生まれで同世代。1998年3月、2人よりひと足さきに亡くなっている。

テレビドラマの脚本家、エッセイスト、小説家として知られる向田邦子も1929年11月28日生まれで、1981年8月に飛行機の墜落事故で早く亡くなった。

このなかに混ざっても、やっぱり矢川澄子には、過激な感じがある。そしてほかの人たちには近寄りがたさというよりはエリート臭のようなものがある。階層が違う、という感じ。それがあっておかしくないはずの矢川澄子に、それがないと気づいた。

晩年の矢川は彼女よりずっと若いミュージシャンたちと親交したけれど、同世代のほかの女性たちはそういうことをしそうにない。矢川にはロックやパンクが似合ったと思う。クラッシックやジャズ、歌謡曲よりも。

向田邦子が亡くなる1年前の1980年、矢川は東京から長野の黒姫に移るけれど、それは彼女の命をいかしたのではないかと思う。

私の年長の知人に「矢川さん」と何度か会ったことがあるという男性が2人いる。お1人は70年代の東京で、浪人生をしたりフラフラしていたころ、矢川さんの妹さんと友達になって彼女と一緒に、離婚して一人暮らしをしていた矢川さんのアパートを何度か訪ねたとのこと。

もうお1人は80年代。仕事で谷川雁さんの黒姫のお宅を訪ねることが何度かあり、そのときに矢川さんもご一緒されることがあったとのこと。

お2人とも矢川さんを、ものしずかな小柄な人だったと言われていた。いま『いづくへか』を読んでもそんな感じがする。言葉とご本人とが遠くない、素直な人なのだろう。それと同時に、この人は言葉の世界のなかで、観念の世界のなかで生きた人なんだなと思った。

そして、高慢で自負がありナルシスティックで、つらいから酔っぱらって自分で自分をごまかそうとするところがある人にはめずらしいと思われるくらい、他人を傷つけないようにしようとしている、そう決めて意志的にやっている、くらいの人に見えた。人から傷つけられたこと、傷ついたことが、ほんとうにこの人はお嫌だったのだろうと、そこから思われた。この人の過激さはそこに根があるのだろう。

ああそうか。この人は、傷ついた!謝って!って、いま流行のフェミニストやポリコレの人みたいなことができるほど恥知らずじゃないし、プライド低くないし、本当に傷が深い。そしてべつに、相手に謝ってもらいたいなんて本当に思っていない。謝られたとしても傷は癒えない。ならどうあるのか。どうしようもないアポリアだ。

(2.10 付記 イノセンスとはもともと、人を傷つけないという意味だと聞いた。この人はイノセントではなかった相手や自分がお嫌で、イノセントでありたかったのだろう)。


いいなと思ったら応援しよう!