見出し画像

必要とされるボランティア活動は、たとえ仲間がどんどん減って、自分が最後の一人になってしまっても、実は・・・その先うまく進む可能性がある

先日、X(旧twitter)を眺めていたら気になるポスト(投稿)を見つけました
限界集落(人口1万人以下規模の住民が住む町のことらしい)では商業貴族が誕生し、ヨソモノが進出して来ない限りその貴族生活はうまく進むというはなしが書いてありました

この詳細はX(旧twitter)で「限界集落 商業貴族」を検索するとヒットするポストで読めます

今日の私のnoteは直接このXポスト内容についてではなく、ここから連想される別件について書くことになります

私の連想とは、

住民が減って限界集落ができるように、鳴り物入りで誕生した地域ボランティア活動は、そのすべてがうまく軌道に乗るわけでもなく、構成メンバーが一人離れ、二人三人といなくなり「私一人取り残された・・・」というような、まさに「限界ボランティア活動」に陥ることもあり得ますが、このとき「私」は上述したような「貴族」ポジションになっているのかもしれない!?ということです

これは、
「どうしようもなくなり、たった一人でボランティア活動を続行させなければならなくなった」
という自分の境遇の悲劇を上回る幸運が、実は手にしているけれど、当人はそれに気がつかないだけ、になっているかも!?ということです

上述したXのポストのはなしで、限界集落では同じお店が他にできなくなり、既存のお店は他店との競争がまったく起きないサンクチュアリー環境になる、と意訳できると思えます

「待っても待っても新入ボランティアは現れず、たった一人自分だけ残されたボランティアになってしまいました」

「仲間が去ってしまった失望と寂しさは、なかなか払拭できません」

こうなった場合『機会をみて自分はボラ活を閉じてしまおう』と考えたくなりますが、
もしそのボランティア活動が誰かに必要とされているものであれば、
この時を境にして「やりがいや楽しさ」を一人独占できる貴族になれるというメリットが生まれていることに気づくことでしょう

私は過去noteで、学校の授業支援ボラを続けている投稿をいくつかnoteしましたが、それらは地元の学校教育で必要とされているボラ活でした

ボラ活チームを立ち上げて4年目になったとき、例の感染症パンデミックによってチーム活動は休止から事実上の消滅になりましたが、学校からは「授業に必要だから引き続き、ただし一人で授業に参加して」と言われ、私一人が授業支援に当たってきました

チームでの支援から私単独での活動になったときには『ほんとに自分一人でやって行けるのか?』と心配になり、家族からも校長に掛け合って辞めることを伝えたらどうかとも言われましたが、校長先生からは毎回感謝されたのでどうしようもなくズルズルと一人で授業支援をやってきました

でも言葉で感謝されることは校長先生からだけでしたが、子ども達の何人かは授業で私とはなしができることが嬉しそうで、担任の先生によると何人かの子は次の授業を楽しみにしているということも聞きました

そういう子ども達から私は「昆虫博士」と呼ばれています

どうも「昆虫先生」は担任の先生方の中にいないらしいです
だから私が虫好きの子ども達の絶好の話し相手になっているらしい、という感じです

私は特に生物学者でも昆虫養殖業者でもありませんが、幼少の頃はいわゆる昆虫少年で、学校が終わると昆虫採集に出かけて、見つけた虫をたくさん家で飼うほど虫好きです

そうした「自分の好きなことが学校授業の役に立つ」「学校がら必要とされているという嬉しさ」「子ども達と一緒になって楽しめる楽しさ」これらの精神的報酬がかなりたくさん得られる「貴族」になっていた!

これが上述の限界集落の商業貴族というおはなしから連想して閃いたことです

多少の報奨金もいただけますが、金額は1年間で1万円程度です
これも確かに収入としてありがたいですが、これは一人残された活動を閉じてしまい、報酬をいただかないことにしてもあまり不自由ではありませんが、
辞めたら子ども達と虫を捕まえたり、観察したり、知っている知識を交換したり(子ども達は意外なほど昆虫に詳しいです)する楽しみが消えてしまいます

もっともこうした一人ボランティア活動を続ける意義は、実質的にその活動が必要だからという根拠があればこそ

「今まで続けてた伝統があるから、ここで自分がそれを潰したくない」
もしこれだけの理由の活動なら、それはもう実質必要な活動ではなくなっているのかもしれません

形骸化したボランティア活動も存在している可能性はあります

なので、よく活動の必要性を客観的に思い返して、
「やっぱり自分は必要とされている」と心底納得し、
合わせて、たとえ一人の活動でも楽しさと満足感・やりがいが実感できるなら、それは続けた方が良いかもしれません

ただボランティア活動を続けるには、それなりの支出もあります
直接にお金を払ってモノを買うことも、移動のために交通費が要ることもあります
出て行くお金は目に見えなくとも、自分がボラ活している間は家族は迷惑していることもあります
そうした家族のケアに努力が要るような、目に見えないコストは容易に起きますから、
「貴族になっているんだ」だけで突き進まない方がいかもしれませんが、
「たった一人でこの先のボランティア続けて行くなんて・・・」と疲れたときに、実はもうこの私は貴族になっているのではないだろうか?と、
考えてみることもいいと思います



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?