「死を思え」について
昔、学生時代の恩師の座右の銘は「memento mori(メメント モリ)」だった。卒業の時、教科書の裏表紙に卒業記念としてその先生にこのアルファベットの列を書いていただいたのだが、いったいそれが何のことか辞書を調べてもさっぱりピンと来なかったのだが、そのメメント モリは「死を思え」という意味だということだけは辞書で調べて知ることができた。
卒業の時はそれで終わってしまったのだが、50歳を過ぎてからなぜかメメント モリは自分の座右の銘みたいになってしまった。
wikipediaには複数の意味が書いてあるのだが、そこにピンとくるものも無く、自分としては「いつやるの?今でしょ!」が一番ピッタリな解釈だと納得している。
本来のメメント モリは、今日自分は生きていて絶好調でいるけど明日ははたしてそうでいられるかどうかわからない、という教えのようで、明日はもしかしたら不慮の出来事で生きていないかもしれない(だから生きている今の時間はすごく大切だ)ということのようだ。
50歳過ぎるとそういう実感がひしひしと湧いてきた。
今すでに60歳を超えたので、さらに強くそう思い、やりたい事は生きている間に!と誇張でもなくそう思うようになった。
やりたい事は全部実現できるとは限らない。むしろ様々な理由で実現できなかった「やりたい事」の方がずっと多いのは現実だ。お金が足りないからとか、能力や才能が不足してできないものはいっぱいある。そういうのは高根の花みたいに「不可能なやりたい事」だ。だけど「可能なやりたい事」はできるハズなのに実際にはそれすら実行できないことも少なくない。
今までの反省で「可能なやりたい事」が達成できなかった一番の原因は、今それを始めなかったから、というものではないかと思う。
「やってみたい!」と思っていながら今スグやらず、一晩寝て明日になったらやってみたい気持ちが萎んでいて、どーでもいいや、になっていたから実現できなかったという寸法だ。
つまり明日になったらやりたい気持ちが死んでいた!という「気持ちの死」についても思わなくてはイケナイ!ということもメメント モリの教訓に加えることができる。
明日になったら今の気分は変わっているかもしれない、だから今始めよう!
あるいは、今は調子に乗っているだけかもしれない?と思ったら、一旦寝て頭を冷やして明日になってもまだ生き残っていられるような強い思い込みだったかどうか、そういう「思い込みの死」についても思え!もアリかもしれない。
ともかく、メメント モリは自分にとっては忘れがたい言葉なので、そこから派生した自己流の教訓も含めて引き続き自分の座右の銘になっているだろうと思う。