<プロフィール>「まあいいか」方式で進んできた男の今まで
私は生まれつきの引っ込み思案男です。思ったことをズバッ!と言えない男です。
幼少の頃好きだったことは、虫といっしょに遊ぶことでした。そこから少し進化して理科を好む児童になり、将来は生きものの研究家になると言っては「そんなもんでメシは食えない!」と親に叱られてた、そんな小学生時代でした。
小学校5年生のとき、担任が学習指導要領を完全無視したとしか思えない独特な理科授業をしてくれたのがキッカケで、私の理科好き興奮度が増しに増し、興味の方角が虫から石ころ、化学実験を経て電子工作に向かい、大学では航空機を学びたいと大志を抱くように紆余曲折しました。それで当時、国立大学には合格できない自信!があった私は、大学2年進級時から航空工学コースを選択できる制度がある私立大学の機械工学科に進みました。
そしてイザ2年生進級の説明会の当日のこと、担当教授が「航空工学コースより機械工学コースの方がずっと就職には有利なので・・・」とか喋ったのを聞き「エッ!!」、むくみくと実利優先思考が湧いた私は、背に腹は代えられないと直感し、念願だった飛行機野郎への夢を捨てて機械技術者への道に鞍替えしました。
幸か不幸か、当時の大学で機械をやる女子学生はゼロ。
ガールフレンドもない私は、元々好きな学科へ入学したこともあってか『もう少し学生時代を楽しみたい』と思いつつも、何することも思いつかず、ついダラダラと勉強する毎日になりました。そのおかげで成績はまあまあ。くだんの私立大学にしては上出来の、世間でもまあまあ評価の製造業企業に就職することができました。
飛行機野郎の夢からちょい変わったとはいえ、念願叶って機械を扱うことになったその会社で、私は技術者として働きました。
私の才能?は泉のように次々に湧く豊富なアイデア。この源泉は私のいわゆる発達障害の一種ADHD気質を持つためだろうと、そのように生んでくれた親に感謝しています。
弱点はまさにADHDの王道である「注意欠陥」そのもの。次々生まれ来るアイデアをすぐ試してみたくなり、生産設備を勝手にいじって生産ラインを故障させ、何度も何度も怒られた思い出の日々が今となっては懐かしい!です。
そのような私が特に苦手にしたことは、は集団の中でリーダーシップを取ることと会議の司会をすることでした。
社員になって数年経つといろいろな研修会に参加することがありました。そういう社員研修には必ずグループ討議があり、誰かがリーダーと司会役になるんだけど、私は最初それが全然できなくて、まったくヘタくそ、箸にも棒にもかからなくて、悔しい思いをしました。
『これは何とかしなくちゃ!』と一念発起し、あえて苦手の司会役をしたり、話し方のセミナーを受けたり・・・奮闘努力の甲斐も見え始め、何とか会議の司会もできるようになった矢先のこと、直属上司から「ちょっと俺の部屋に来てくれ」と言われて部屋に入りました。
「おまえに、労働組合の役員をやってもらいたい」
『ガ、ガーン!』
「嫌なら断ってもいいんだが、そういう事になれば今後俺はおまえに辛くあたるからな!いいか!」
『・・・』
後日私はその直属上司の同僚の、仲良しだった隣の上司に「労組送りのはなし了解」と返事しました。直属上司はもちろん管理職。一方の労組は非管理職社員の組織。なんで関係ない上司が俺に労組へ行けと?
あとで分かりましたが、それが俗にいう御用組合の世界というものです。
労組に出向すると4年が「ケイキ」だから職場復帰したら4年間のブランクというわけ。技術職という日進月歩に進化する世界では、もう元の仕事に戻ることは難しくなります。
なぜそんな状況に私を行かせたのかと思い、直属上司に「どうして、私に白羽の矢を向けたの?」と尋ねたら・・・
「おまえは、ひとの間に入り込んで話しをまとめたりできるじゃないか。他の、たとえば鈴木君にそんな事ができると思うか?あいつにはできない、その代わりおまえより緻密で技術職にはずっと向いている」と、こんなことを上司は言いました。
私、納得!
なんということでしょう! 自分の苦手克服努力が自分のやりたい道を中断することになってしまいました。
教訓:苦手なことを克服しようとし過ぎてはいけない。
案の定、労組という世界は私の理想とする職場とはまったく違う世界。
最初の2年間は毎日が「もう困りごとを俺に言って来るなよ!」・・・「また来たかぁ!」な日々が続きました。
しかし3年目の恒例の担当配置換えの後は、会社以外の人間によく接する機会ができたおかげで『べつに会社にいることにこだわらなくてもいいか!』と、会社人間から一皮剥けるような意識の変化が芽生えました。
そんな気持ちの変化を覚えたら、もう会社というものが縁遠く感じられ、早く会社を辞めて自由に生きたいと考えるようになり、この気持ちはもう止まりません。
教訓:待てば勝ってに状況が良くなることもある(その1)
それから私の「退職して起業」への想いは強くなるばかりで・・・
しかし、当時まだ30歳代半ばだった私は自分で起業して何ができる?の自問に答えられず、自分で稼ぐなんて『そりゃシンドイかろうなぁ』となかなか会社を離れる決心はつきません。自考えるだけで恐ろしい気もちらほらしておりました。
なのでとりあえず『将来はたぶん、おそらく起業するのでは?として、でも結局はサッパリ儲からないかもしれんから、サッパリ儲からなくても大丈夫なようなお金をまず貯めよう!』『それなら安心安全だろうからきっと妻も許すハズ』と考え、ドケチ節約生活に精を出す!を始めました。
さらに、起業するためにはきっとIT知識が要るだろうからと、社内のIT部門へ自分から進み出て異動しました。
幸か不幸か、当時IT部門の管理職はドイツ人に実効支配されていました。
会社はドイツ系企業に経営を牛耳られたのです。
さすがに私も最初は異文化コミュニケーションというのにまいりました。
しかも私の直属上司となったドイツ人は、ドイツ人の間でも煙たがられる"変わり者”。
私は『道を誤ったか』と・・・しかしなぜか不思議にこの変わり者ドイツ人と私は意気投合し、その職場でしばらく私はITマネージャとして仕事に精を出しました。
ドイツ人の直属上司は変わり者につき、私のことを「おまえはただ一人の理解者」と言いました。そして私の成績係数をふつうありえへんランクに引っ張り上げたので、私のお給料にとっては、まったくもって有難いことになりました。
教訓:待てば勝ってに状況が良くなることもある(その2)
しかしその2年後に、その変わり者ドイツ人は急遽転職しました。
残った私も1年後に自己都合退職しました。家族は嘆きました。
困ったもんです。退職する!と断言したとき、私は再就職先を決めていませんでした。
しかたなく「会社やめたよ・・・」とくだんのドイツ人元上司にメールしたら「オメデトウ!じゃ俺んとこ来て仕事せんか?」となり、またもやくだんの変わり者ドイツ人の元で、しばらく老後資金を稼がせてもらいました。
教訓:思ってもみなかったことが起きることはあるが、事前に予測することはできない。
その後私は外資系のIT会社に転職しました。
この時から私は「週末起業セミナー」に足しげく通い、起業の勉強をするようになりました。ある日のセミナー後の懇親会で「・・・あのー、金の取引とかご興味おありでしょう!」と近づいてくる男に私は『コイツは要注意人物だ!』と警戒しました。「今は金が安いですからね、これから儲かりますよ~♪」と調子いいこと言って、よく電話もかけてくるようになったので、私は着信拒否にしました。
それから数年経ち・・・実はその怪しげな男の言っていたことは本当!だったと、金相場を眺めたらそう実感する事態になっていました。
教訓:思ってもみなかったことが起きることはあるが、事前に予測することはできないから手に入らない幸福もある!!
そうこうするうちに、リーマンショックが勃発し、転職した外資系IT会社は経営悪化して左前になり、リストラが断行されて私もクビになりました。
ついにリストラという仕方のない理由で会社生活を辞めることになったわけです。
前職の自己都合退職と違い、家族の誰もが「リストラなら仕方ないね」ムードになり、私はそれで自由な暮らし方をする道に進出し今に至ります。
教訓:ものは考えようである。
もし、私が上述したような紆余曲折をせず、労組も断固断って、道を外さずに会社生活を進んで来たとしたならば、きっと私の苦手な管理職をやらされていたことでしょう。
私は現在62歳なので、今も再雇用制度を活用しながら会社に在籍し、製品の技術的課題に今も日々奮闘していたかもしれません。無かった方の自分の道はどうだったのか知るすべもありませんが、そうしていたらきっと老後の資金はもっともっと??貯まったでしょう。
現実の今の私は、毎日こうしてブログとかnoteを書き、近所で知り合いになったママ友とお話ししたり、小学生のお友達もできてタメ口でお話しするようにまでなりました。
ベツにこのような毎日を期待していたわけではありません。
道から外れても「まあいいか」でやって来たおかげで、結果的にこうなりました。
毎日が自由になったので、幼少の頃に希望した「生きものの研究」もできるようになりました。それを元にして同志のママ友と一緒に地元の小学校で"地域先生”をさせていただいています。しかしこれはボラ仕事でお金が着いてきません!
少しでいいから・・・講師料とか欲しいよ!
教訓:これも塞翁が馬というヤツかも。まあ今は無給でも我慢してみよう!