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描くこと(もしくは書くこと)について

小さな時から何かを作るのが好きだった。主にそれは絵を描くことと、書道に向けられた。ひたすら同じ作業を繰り返すこと。何かをかくのはその線以外の可能性を削ぎ落とす行為だと誰かが言っていた。その通りだと思う。呪文やマントラのように唱え続けることと同じモチーフを描き続けることは似ている。

二十歳を過ぎて、続けていた絵で少しだけ絵でお金をもらえるようになった。でも釈然としなかった。私の中では絵は祈りのようなものだった。祈りや呪文のようなものでお金を貰うことがよくわからなかった。出来上がった絵に興味がなかった。祈りの過程なので。祈りのような個人的なものを人に見せることはいつだって気はずかしさを伴い、承認欲求を満たすことすらできなかった。展示会をして、その帰りに持て余した絵を全て捨てて帰ることもあった。唱え続けた呪文に価値がつくこと。それがなんだかうっすら気持ち悪いとすら思った。

だから社会性を得ようとした。社会に順応して普通になりたかった。普通になれば何もかも満たされると思った。会社に入って、仕事をして。でも思ったより普通になれなかったので、結局個人になって働いている。人より睡眠時間が長くて朝起きられない、人に合わせられない(合わせすぎる)、珈琲を飲んでいないと一日中まともに身体も頭も起動せず、脳は変な時にゾーンに入る。切り替わる過集中と焦燥。楽観主義と虚無。そういう感じだから、私の中身は毎日やかましいのだ。

中学生の時からブログを始めた。それから形を変えつつ色々なところで文章を書いている。文章は私の中では絵よりも何よりも気楽だ。それ自体に価値がつくことも許せるので、今はライターとして生きている。絵は祈りだが、文章は気楽な友だ。

今のような暮らしが向いていると思いつつも、たまにこれで良いのかと言う気にもなるが、満足してはいる。おそらく私は運がいい。まだ全然生きている。今日もしっかり生き延びた。とことんまでこのしちめんどうくさい性格と添い遂げる覚悟を決めている。

いつかまた、自分なりの祈りにオチがつけられることを願っている。そのときは素晴らしい絵が描けるのだろうな。絶対に捨てたりできないような。そんな気がする。私の勘は当たるのだ。

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