エッセイ:男女の関係/積乱雲のかかと
ここのところ短歌を多く読んでいる。ツイッターで。
うだる暑さにカンカン鳴る踏み切りや、二駅三駅の車内といったちょっとした時間に読んでいる。
これがけっこう楽しい。私にとってこれまで短歌といえば歌集だった。歌集といえば寺山修司だった。だが、世界の良さはまだまだ色々と隠されているらしい。たとえツイッターでも少し探せば、ごろごろと感じのいい歌が転がっているさまを見つけられる。
フォローしている方のだけでなく、#tankaで検索することもある。”おすすめ”に流れてくる知らない歌人のツイートをさかのぼって読んだりもする。
ただ、基本的に私と短歌の関係はすごくラフなものだ。タイムラインに流れてきたものを全部読むことはない。そのときどきのちょっとした時間で、偶然出会った歌を楽しんでいる。梅田とか三条のような、大きな街を歩いていて、そこに流れているミュージックがふと耳につくあの感じに似ている。「あ、この曲いいな」、「けっこういい歌掛かってるな」。偶然の音楽は色ではない色を与えてくれる。気持ちを涼しくしてくれる。
一方、私が短歌を詠むのはだめだ。
性根というものが無い。私は一句に二時間も三時間も当たっているのができないのだ。長いことリズムをいじっているとたまらなくなる。十数分そこらの我慢の限界が来ると、突然立ち上がってしまう。檻を失ったサルのようにたちまち逃げ出してしまう。
短歌のアイデアはある。短い草むらのようにそよぐ、七月の光の中を歩いているとそれは自然と沸き起こってくる。
短歌のアイデアは無邪気な子供たちみたいに向こうから走ってくる。手には長い枝、首からはさげている虫かごは緑。
「短歌はもうけっこうまえに諦めたんだ」と、苦い微笑みを浮かべる私の脚にわいのわいのとまとわりついてくる。あれしてこれして、色々うったえかけてくる。私はしゃがみこんでアイデアの頭を撫でながら、誰かがこの無垢な子らに歌の形を与えてやってくれないかなと思ったりする。
無責任な考えだ。創作家として逃げているようでもある。
しかし、私と短歌の関係はあくまでもラフだ。互いが欲しくなった夜に長くない電話を掛ける。そんな男女の関係だった。
***
夜の七時、私は橋を渡る。
最近、引っ越しをした。住んでいるところは同じ京都で変わらない。なんなら区もそのあたりだ。
しかし、雰囲気はちがう。前の町は午後のカーテンのように閉じていくようでありながらも、レース細工の可愛らしさがそこにあった。越してきた町はしんとしている。無音の音楽が流れ続けているようだ。
無音の音楽を思わせるのは、川のためだろう。私の越してきたところには川がある。
鴨川ではない。あんなに大きな川ではない。鴨川のように自然があるわけでもない。私の町に流れる川はかつての灌漑事業のなごりだ。
そして、私は毎晩川に掛かる橋を渡る。夜の六時、九時、十一時と時間はその時々で変わる。決めているわけではないが、渡るときには必ず川を見る。そこで夜の水はのたうっている。何かを暗示するかのように。
ただ、ここには例外がある。というのも、夜七時のときは私は川を見ないのだ。それどころでないのだ。夜の七時には近くに住んでいるコウモリの群れが川面を飛び交っているのだ。数十匹のコウモリたちがその小さな川に集まっているのは圧巻の光景だ。彼らは川面にたかる微細な虫のディナーにありついているのだ。
それは癒しだ。私はここのところ孤独だ。でも、コウモリのそんなパーティに出くわすと、私も彼らのうちの一匹であるように勝手に感じる。そこでカクテルや踊りを楽しんでいる、メンバーの一員のように自身のことを思うのだ。
暗い喜びだ。
***
暑い。七月の下旬にそんな言葉は必要ない。
炎天下の十二時に駅から続くアスファルトの道を歩く。帽子の下でもくらくらするようだ。
こんなに鮮烈に暑いのに、十月や十一月にはもうはっきりとは思い出せなくなっているというのは毎年不思議だった。夏が過ぎた後、私は夏を表現する言葉に困るのだ。たしか、光はまぶしかった気がする。温度も高かったのだろう。それら以外にはいったい何があったのだったか……
きょう、そんな物忘れは自然なことだったのだとわかる。そもそも暑すぎて、私たちは夏を体現するあの青空というものを、一つも目にしていないのだから。
夏は夜という。
違う。夏は空だ。めっきりとした白雲が泳いでいく青だ。
午後の七時には淡くなる空だ。混ざり合って夜でも昼でもなくなった油彩画のようなブルーは夏だけがするものだ。
駅から降りて信号待ちの数分。誰もがうつむいている。影に身をねじこんで、老いた猫のように赤い機械を遠い目で見ている。
私は気づいて空を見ている。そこには青があった。
素敵な空だった。洗い立てで、風を全身で受けて膨らんでいるシーツのような青だった。どんな草原よりも広々としたその青に、積乱雲が白い体を投げかけていた。積乱雲は何重にも層をつくって、私の頭上まで伸びてきていた。しなやかで健康的に膨らんだ白のかかとが信号の私たちを踏みつけていた。
信号が青になった。人々のけだるげな歩みが私の先を行った。
少年のような懸命さと無垢な真面目さをして、私はその夏の光景を記憶に残そうと努めていた。信号はやがて赤に帰ったが、もっと大事なものがそこにあった。私はまさに夏を見ていたのだ。
あんなに綺麗なもの他にあるのかな?
信号機は青を映し、黄を映した。赤になった。
やがて青を映した。黄、赤。
そして青を映した。
***
髪を切りたい。肌荒れを直したい。定職を得て、部屋に加湿器を置きたい。TRPGを一日中やったのちに心地よく寝たい。
久々のエッセイだけに積もる話はたくさんあるが、語るに足るのはつぎのことだ。
ここのところ、私が手に取る弁当は助六寿司だ。気づいてしまったのだ。いなりの美味しさに。巻き寿司が舌に転がるときのわびさびみたいな味わいに。
だから全然選んで助六寿司を取るのだが、周りの若い客たちからはあんまり人気がないようだ。他よりずっと安いのに。
こうやってどんどん落ちついたものを好むようになるのが、すなわち”老いの証拠”なのだろうか……
そんなふうにちょっと思いながらも、私は大事に大事に助六寿司を抱えて(そして心をうきうきとさせて)レジへ持っていくのだった。