精神科リハビリテーション学会の発表についての一考察

 『支援者を考える~ASD当事者の立場から その8』で精神科リハビリテーション学会の発表について触れました。その中で発達障害のある方を看護師として採用したくない病院が8割あるという衝撃的なデータが出てきました。その理由として「患者の安全が確保できない」「患者対応に問題がある」「対人関係、コミュニケーションに問題」が挙げられていました。看護職務遂行で生じる支障が発達障害特性と関連しているということです。しかし、これらの理由には素朴な疑問が生じますー『そもそも対応に問題があるならば、なぜその場で発達障害のある看護師に注意・指導しないのか?だから、安全の確保ができなくなり、対人関係、コミュニケーションに問題があるとされてしまうのではないのか』。
 健常者ならば、対応に問題があっても特に何も言われないでしょう。注意は軽く済むでしょうし、誰でも失敗なんてあるよと励まされたりさえもするでしょう。それはその人がその問題を理解して次はできるはずという周囲の暗黙の了解のようなものがあるからだと思います。ところが発達障害者ならば、鬼の首を取ったような大騒ぎになります。その暗黙の知が理解できていないからです。健常者はそのために叱責する羽目になりますし、当の発達障害者はなぜそうされるのか理解できません。それで結局、上記に記した3つの理由を言われてしまうのでしょう。ただ、私はASD当事者の1人として全く納得できませんし、なぜその場で言語化しないのかと考えてしまいます。
 健常者にしてみれば至極当たり前のことであるから言語化していったらキリがないし、そんなことばかりしていられないと思うのでょう。空気を読んで状況を察して自分で判断して動いてくれないと、臨機応変に柔軟に患者に対応できないというのが本音かもしれません。しかし、この本音は本当に正しいと言えるのでしょうか。
 それは「否」です。社会では健常者が力ある立場であるからこそ正しくなるだけで、力ない立場である発達障害者が叱責で追い詰められるという事態が起こります。要するに、上記の3つの理由の「安全確保」「対応問題」「対人関係、コミュニケーション問題」というのは結局、健常者が勝手に決めて発達障害者に責任を押し付けているという構造になります。特に「対人関係、コミュニケーション」は本質的には話す・聞くという2つの限定された能力だけで評価されます。現在は書く・読むという手段であるTwitterやnoteなど、コミュニケーション手段も多様化している社会なのに、なぜ「対人関係、コミュニケーション」は話す・聞くのみで評価されないといけないのでしょうか。健常者にしてみればその方が速いし、書く・読むなんて手間が掛かると思うのかもしれません。また、話す・聞くの方が分かりやすいということも考えられます。できる人はそれでもいいでしょうが、できない人はどうなるのでしょうか。本を読んだりスクールに通ったりなどして「対人関係、コミュニケーション」の苦手さを克服しないといけないのでしょうか。それだったら、単に健常者優位を正当化してしまうだけです。ASD当事者の1人である私には到底納得できる解決方法ではありません。ではどうすればいいのでしょうか。
 この問いに関しては、私の範疇を超えるものになることは確かです。ただ1つあるとすれば、暗黙の知も含め、力ある立場である健常者が言語化して発達障害者に具体的に説明するということです。即ち、発達障害のある看護師に「患者対応に問題がある」ならば、その場で注意し、その理由や別の言い方などを指導・教育した方がいいということです。キリがない、そんなことばかりしていられないと言って怠ったら、長い目で見れば、病院側にも職場全体にも人材不足などの不利益として跳ね返ってくるでしょう。看護師に限らず、対人援助職は患者などの命に関わります。だからこそ、言語化して説明することは患者などへの安全確保や対応、対人関係やコミュニケーションを円滑に進めるのに有効であると考えています。
 ただ発達障害と一口に言っても個人差がありますから、私の提案が絶対であるとは一切考えていません。上記の方法は話す・聞くに書く・読むの要素を加えたものです。それ以外にも様々な方法があると思いますので、分かる方は教えていただければ幸いです。
 ここまで読んでいただいた方に心から感謝申し上げます。


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