支援者を考える~ASD当事者の立場から その5
Twitterを読んでいたら次のような文章が紹介されていました:
『治療に抵抗するクライエントなどいません。柔軟性に欠けるセラピストがいるだけです。』。これはミルトン・エリクソンという方の言葉のようです。臨床心理関連の人でしょう。私はこの言葉が気になり、自分なりに次のようにもじって投稿しました:
『支援に抵抗する利用者などいません。柔軟性に欠ける支援者がいるだけです。』。
支援側にとってはかなり痛烈な批判と受け取れるでしょう。私もその立場になればムッとしても不思議ではありません。ただ、冷静に考察すると思い当たる節は支援者ならば誰でもあるはずです。
例えば、私が通っている福祉事業所(A型)で聞いた話ですが、去年からハラスメントの法律改正で支援者も利用者を訴えることができることが挙げられます。支援者も同じ人間だから、ハラスメントを受けたら利用者と同様訴えてもいいといいことでしょう。ただ、これには大きな欠陥があります。
まず、利用者と支援者は立場的に見れば非対称的(対等ではない)関係です。支援者が立場的に強いのです。ですから、立場的に弱い利用者を対等にする責任や義務が発生します。したがって、「同じ人間」では決してないのです。「同じ人間だから」として訴えてしまったら、確実に支援者が勝利し利用者が敗北することは想定できます。利用者はその後、どうなるのでしょうか。利用者が再起不能になることは想像できるはずですね。それを自己責任だから知らないと言っていいでしょうか。それで済ませてはいけないのが支援者のはずです。ということは、支援者へのハラスメントだと主張するには、そのために利用者を潰してはならないということになり、支援者が利用者を訴えることは相当厳密な運用でなければならないはずです。
支援者が我慢しろということかと言いたくなるでしょうが、そうではありません。利用者のハラスメントに関しては、支援者はこれはハラスメントですとはっきり伝えるだけでなく、こんな時はこのようにやって(言って)欲しい等、ハラスメント以外の関係の仕方の代替案を教育・指導・助言ができる必要があるということです。そのためにもその利用者との関係がどうなっていたのか、どの言動がハラスメントにつながったか等を考えなければなりません。あくまでも利用者ー支援者の関係であり、支援者が立場的に強いのですし、「同じ人間」ではないのですから。我慢ということは自分たちにも利用者と同様の権利があるという主張に繋がります。しかし、利用者という立場からすれば、支援者はすでに全ての権利を持っている人たちであり、立場的にも様々な権限を有しています。対等にするということは、そのためにこれらに制限や縛りを掛けて利用者に関係していく責任や義務があるということです。これは日本国憲法で国民主権のために国会議員に様々な制約が課せられていることと同じ原理です。
以上のことから考察すると、ハラスメントにおいて支援者が利用者を訴えることは『支援に抵抗する利用者などいません。柔軟性に欠ける支援者がいるだけ』とも捉えられます。利用者としての立場からは『支援に抵抗する利用者などいません』と言えますし、支援者からは抵抗しているように見えても真剣に考えて物事に当たろうとしていることが理解できます。ならば、『柔軟性に欠ける支援者がいるだけ』ということになります。利用者から支援者へのハラスメントはその関係においてある種の「ボタンの掛け違い」があって起こったとも捉えられるわけです。
いついかなる理由や事情があってもハラスメントは確かに許されません。ただ、支援者が利用者をそのために訴えるのは自分たちが『柔軟性に欠け』ていないか、利用者を潰すことにならないか等の深い考察を要求されていることを忘れてはならないと考えています。
ここまで読んでいただきました方々に心より感謝申し上げます。