「現実を乱視する」 2024.7.21の日記

◯坊主

 色々していたら日記のことをすっかり忘れていた。
「3日坊主」という慣用句を浮かべた時の苛立ちをエンジンにして文字を打ち込んでいる。幕間、沸々と高温。
世間一般的に立派だとされる職業、例えば聖職者や教育者などのなかで、元〇〇が単純に軽蔑になるのは僧侶だけなのではないか。
それは殊更「過酷な環境から逃げ出した軟弱者」という側面が強調されて表現される。
 三日坊主という単なる慣用句が、状況についての異なる面を考察することを妨げているように感じるのだ。
そもそも三日坊主というレッテル自体、選択と集中でリソース配分を見極め、非効率的な選択肢を排除することが当然となっている現代的価値観にそぐわない言葉じゃないのか。
「僧侶になってみる」と決断し、実際に行動し、「俺には合わない」と早期に見切りをつける行動力を評価してやっても良い。
「継続は力なり」なる言葉もあるが、実行力と決断力を持つ三日坊主も強いやつなのである。
続ける惰性よりも辞める積極性のほうが強い。
ひたすら人生経験からそう思う。

私は弱いので日記を書きます。よろしく。

 現在午前5時半、早朝の寝ぼけた頭でこういうことを書く。
頭がすっかり起きた頃には「何いってんだコイツ」となること請け合いである。
あらゆる意味で私は弱い。

◯『批評について』

 ノエル・キャロルの『批評について』を読んでいる。
まだ一章を半分読んだ程度ではあるが、備忘録としてここに思ったことを書く。
 曰く、「作家がその作品で何を達成したか」という点、所謂「成功価値」を、その作品が所属するカテゴリや歴史的文脈などの固有条件から導かれる客観的基準に基づき、最終的な価値付けを行う試みこそが批評である。

例えば今私がやっていることを当てはめると、
「浅倉透というカテゴリーに属し、漫画という形式に属し、二次創作という運動に属したもの」
を作っていることになる。

 とすると、「浅倉透というキャラクターの理解を助けるものであったり、原作では描かれていない側面を漫画媒体に適した形で表現できているか」であったりが成功価値になってくるのかな。
そういう観点でプロットや描写を見返すと、ここ必要ないよなと思う箇所が明確になった気がしている。
しかし、全体が最終的な価値に寄与していなくてもマクガフィン的に必要なものもあるよなとも思っている。

 浅倉透をカテゴリーとしたのは、原典となるシャニマスは1つのコミュそれ単体で独立しているというよりも、その総体として一人のアイドルに紐づき構成されている場合が多い。
また、私はアイドルを使って表現したいというよりも、アイドル自体の世界観を表現したいという目的意識があるからだ。

著者は決して批評は作家の指針を定めるものではないとしているけど、描いている途中にこれほんとにおもろいのか?となることは往々にしてある。
そんな時客観的価値付けを行う術があるならば、多少なりとも創作の推進力になるんじゃないんだろうか。

読み進めて理解と考察が深まったあとにこの部分を見返して、「何いってんだコイツ」と言おう。

◯乱視かもしれない。

 今まで20数年生きてきて初めて気づいたのだが、私は乱視かもしれない。
「Hot Dogs, Horseshoes & Hand Grenades」というVRで銃器をいじくれるサンドボックスゲームがある。
そこでアイアンサイトを覗く際、リアサイトが二重に見えて凄く狙いにくいのだ。
 これは人間の目が左右に一つづつ付いている構造上、全員がそうなのかと今までずっと思っていたが、「何故米大統領のシークレットサービスの銃にドットサイトがついていないのか」というネット記事を読んでいる時にあるコメントを見つけた。

I am Mr.Satyre 2 days ago

All of my pistoles have red dots, but I started doing that because of my severe astigmatism prevented me from being able to get quick and accurate views of my iron sights.

(私のピストルにはすべてドットサイトが付いていますが、私がそうし始めたのは、重度の乱視のせいでアイアンサイトを素早く正確に見ることができなかったからです。)

あれ、これ俺じゃね?となった。
あれって乱視なのかもしれない。
 そう思うと思い当たる経験がちらほら見えてくる。
私はスポーツなどで重要視される周辺視野というものがいまいち得意ではなかったような気がする。
意識して焦点を合わせないと、なんか微妙に風景がチラチラして居るような気がする。

う~~~~ん。乱視かもしんない。
まあ生きるのに支障がないからそのままにするか。
人に迷惑がかかることなら別であるが、今のところ問題なく生きれている。
乱視かもという懸念は、いざという時自分を納得させられる武器を手に入れたということにしておこう。
乱視であるという事実が精神の邪魔になることも当然あるので、はっきりさせないままでいよう。

真実を乱視して、自分の都合の良い事実を適宜挿入していこうという態度で生きていきますこれからは。

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