「視覚障害のある人が望むだけ自立し、自分が選んだ人生を送ることができるようにしサポートします。」という一文にドキッとした話。
この言葉は、たまたま見ていたイギリスの「Live Well」というサイト内で紹介されていた「感覚喪失ポータル – 視覚(原文:Sensory loss portal – vision)」の中で出ていた言葉。
※リンクは最後にもういちどまとめます。
ちなみにこの「視覚障害のある人が望むだけ自立し、自分が選んだ人生を送ることができるようにしサポートします。」の原文は、次のとおりです。
いや、とても当たり前のことなんですが、端的に説明されていたので、ドキッとしました。
視覚リハビリテーションや相談対応に携わる私ですが、どこかで「自立できればできるだけ、出来ることが増えれば増えるだけ良い」という前提で動きがちな自分に気付かされます。
もちろん、上記の言葉は100%同意です。何でしょう、当事者を目の前にするとつい、というところでしょうか。
この言葉のキモは「望むだけ自立し」の部分。そうなんですよね、どれだけ自立するかも含めて、その選択は最終的にご本人がすることなんですよ。
全部自分でやりたいと思うもよし、9割は家族やヘルパーを頼って、この部分だけは自分でやりたい・やらないといけないという部分だけがんばる、というのもよし。
もちろん「望むだけの自立」・・つまりどこまで自立をしたいのかは、もちろん最後はご本人次第ではありますが、実際上、特にご家族など生活を共にする人とは話し合って決めたほうがよいと思います。
ちなみに私の経験上ですが、ご家族は「見えなくて大変だろうからできるだけのことはやってあげよう」と過保護的になるか、逆に「社会で生きていかないといけないから何でも自分でできるように」と厳しくなるかの両極端になってしまう場合が多いです。もちろん、いずれも良かれと思ってのことです。
そうなってしまう原因として、ご本人・ご家族ともに、今の見え方で何ができるのか・出来ないのか、どんな方法があるのか、どれぐらい頑張ればいいのかの情報をお持ちでないというのがあるかなと。それでなくても視覚リハビリの分野は知られてませんから・・よくあることなのです。
その「何をどこまでがんばればいいのか、何は家族に任せればいいのか」「何をどこまで手伝えばいいのか、本人に任せればいいのか」の境目を決めるための情報や見通しを提供するのが、私の大切な役割だと思います。
その上で「どこまで自立するか」はご家族と、そして最後はご本人が決めること、だと思います。
当たり前のことを長々と書いてちょっと恥ずかしい気もしますが、シンプルな言葉でガツンとやられた気がしたので、自分への戒めという意味も含めて、noteに残しておきます。
※今回の日本語訳は、全てGoogle翻訳を利用したものです。
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