哲学対話にファシリテーターは必要か?
「ファシリテーターお願いします」と言われると、
「え?!」と身構えてしまうのですが、皆さんはどうですか?
「誰かの役に立ちたい」という気持ちが強いと自負しているので、やりたくない訳ではないんです。
自己紹介や挨拶など人の前に出て話すのは嫌いではないですし、台本を読んで司会をすることも抵抗はありません。
だけど、身構える。
それは、この「ファシリテーター」という言葉に含まれる相手からの願いが、私には解像度が低くぼやけて感じるからなのです。
ファシリテーターって何ですか?
あなたは、どのような役割を期待しているのですか?
どのような場への介入を期待して、どのように動いて欲しいと依頼しているのですか?
ほら、頭固いと思ったでしょ?
「ファシリテーターよろしく!」「OK!」とか軽く言っちゃって、自分なりの「ファシリテーター」をやっちゃえばいいのにね。
つい、期待に応えたくなっちゃう性分なんですよ。
だから、すり合わせたくなっちゃうんです。
あなたの思う「ファシリテーター」を理解したいんです。
一般的に使われている意味で考えてみます。
一般的というのは、辞書的な意味だと思うので調べてみます。
1の「物事を容易に」という言葉にすでに圧倒されながら、2へ。
勉強会のファシリテーターを例に挙げていたつもりだったので、2の意味をよく読むことに。
一番最後の「議長と違い、決定権をもたない。」これは分かりやすいような?
話し合いの結果を自分なりに解釈して、何かを勝手に決めたりしないってことですかね。
2の前半部分の「集会・会議などで、テーマ・議題に沿って発言内容を整理し、発言者が偏らないよう、順調に進行するように口添えする役。」はどうでしょうか?
口添えって、一世代前に話題になった「囁き女将」が浮かぶのですが、きっとそこまで内緒話感覚ではないだろうと推測されますが、「発言内容を整理し、偏らないように順調に進行する」というのはその通りだなと思います。
まあ、そうなんだけどさ、どうやってやるのよ…
そこなのよ、すり合わせたいところは…
発言内容を整理するために、グラフィックレコーディングのように文字でまとめることを想定されちゃっていて、何も書かないで話をすすめていると「え?書かないの?整理してないじゃん」って思われるし、
偏らないようにするために、全員に発言する機会を用意しようとしたら「もっと考える時間を取るべきだ」と思われるかもだし、
順調に??順調って何よ???
先程流しちゃった「物事を安易に」の安易の意味も気がかりです。
とにかく、「ファシリテーター」という都合のよい一括りの言葉で役割を要求するのは、説明不足だなと思うのです。
説明不足というか、対話不足というか、認識を揃えたいのです。
カタカナ用語は特にそう思います。
で、前置きが長くなりましたが、タイトルにある本題です。
「哲学対話にファシリテーターは必要か?」
私は、必要だと思っています。
なぜか?
話しっぱなしを防ぐためです。
ある問いがあったとします。
例えば、「友だちって多い方がいい?」という問いだとします。
そこでAさんが「多い方がいいと思います。二人でやる鬼ごっこよりたくさんでやる鬼ごっこの方が楽しいからです」と答えたとします。
Bさんが「ぼくは少ない方がいいと思います。多いとやる遊びも決まらなくて、面倒だからです。」と答えます。
Cさんが「私は多い方がいいと思います。その日に遊びたい遊びで誘う友だちを替えればいいと思います。」
こんな風に、順番に考えを発表していく…
これでは、意見発表会で考えが並べられていくだけで深まりがありません。
そこでファシリテーターがAさんの考えに対して、「どんな遊びでも二人よりもたくさんの方が楽しいのかな?」と問いかけたとします。
すると、どうですか?
その問いを投げかけられた人は、いろいろな遊びを思い浮かべて脳内検証を始めるはずです。
「大繩ならどうかな…これも大人数がいいなぁ。テレビゲームはどうかな…さすがに10人でテレビゲームは同時にできないか…」などです。
ファシリテーターは、続けます。
「遊びたい遊びで誘う友だちを替えるってことは、一緒にいたい人はいつも変わるってこと?」と問いかけたとします。
するとまた、脳内検証が始まります。
「そういえば、〇〇くんと一緒に遊びたくて、遊ぶ内容でもめたなぁ。だからって遊ぶ相手を変えるんじゃなくて、遊ぶ内容を考え直したっけ。一緒にいたい友だちっているよなぁ。」
「友だちと親友の違いってなんだろうね?」「家族と友だちとの違いは?」などと、問いが問いを呼び寄せていきます。
こうした例をもとに考えてみると、問いに対して、全員が脳内検証を始めてしまってはどうでしょうか?
または、全員が自分の考えを言うだけにとどまってしまっていたらどうでしょうか?
対話は進まず、発表会のままになってしまいます。
参加者でありつつも、俯瞰的に問いを投げかける役割を担うファシリテーターが必要だと思うのです。
もちろん、参加者同士で問いかけ合うことが大事です。
ファシリテーターが一方的に問いを出すだけでは、質問するファシリテーターに答えるという一方通行の構図が出来上がってしまうでしょう。
相互に問いかけ網の目のように重ね合うことで、一対一の対話からみんなの対話へと発展していきます。
そして、ファシリテーターに関しては、いつも俯瞰的な立場でいるのは違和感があります。
俯瞰的であることは、客観的であることに近く、対話の輪を外から眺めているような評価者的で指導的な立ち位置となります。
もしファシリテーターが指導的な立ち位置だとしたら、問いの正解を指し示し導くことができるということです。
「友だちと親友の違い」のような、価値観によって答えが変わるような問いについて、絶対的な正解をファシリテーターは持っているのでしょうか?
こうやって順を追って考えてみると、最初に「ファシリテーターは必要」と答えましたが、もしかしたら私が必要と言った役割は「ファシリテーター」という言葉で表される意味とは違うのかもしれません。
対話に対等に参加しながらも、考えを聞きながら問いを投げかけることを意識した人は、必要!
うーん、これだけでは別の観点で必要な役割の説明が足りない気がします。
だけど、今回話題にしている「評価者的で指導的な立ち位置ではない」ことは伝わるかなと思います。
よく「子どもだけで対話をさせようとしたのですが、うまくできなかったので哲学対話失敗です」というニュアンスの感想を聞くことがあります。
「子どもだけで対話をする」=哲学対話????
そうだったっけ????
そうなのかな?????
私はまだ学び始めたばかりでそれが正解なのかは分からないのですが、個人的には「子どもたちだけで無理にやる必要はない」と思っています。
もしも、「子どもたちの中からこの人はファシリテーター役を」または「全員がファシリテーターのつもりで」と事前に役割を確認できているならば、子どもたちだけで対話をしてもいいかもしれませんが…
道徳の場合は、方向目標を考えると教師がやはりファシリテーター役を担うのが適任かと思います。
道徳?方向目標?となったところで、一旦区切ります。
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